皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
たまに戦う弁護士&心理カウンセラーの小川正美です。
今日は、まずは、1月29日(土)に開催するマミコちゃんとのオンラインイベント『なんでこの私に彼氏ができないのかしら?』が、おかげさまで満席になりましたー--!!
というお知らせからです。ありがとうございます!!
あとお1人増席しようか、マミコちゃんと相談中でございますので、参加してみようかな・・・と迷っている方は、続報をお待ちくださいませ。
あと、私事で恐縮なのですが、実はですね、29日の午前中に経営者・個人事業主向けに、クローズドセミナーの講師もするのですよ。弁護士として。
なんか、私すごくない?(笑)多重人格?いやいや、マルチタレント?多才?(2022年は自画自賛強化キャンペーン中)
ということで、29日は何だか忙しいワタクシなのです。
あ、そういえば、1月29日は、12月19日から逆行していた金星が順行に戻る日なんですよね。今調べました(笑)
金星と言えば、「愛とお金」を司る星。
・・・・あれれれ?ビジネス的なセミナー、そして、パートナーシップのワークショップ。
ひゃー。すごーい。何の気なしに組んだスケジュールがこんな吉日だったとは。
私、最近、こういう不思議なシンクロがよくあるのです。昨年の事務所移転の物件を決めた日も最強開運日だったと後から知ったし。
ホントに世界は自分が創っているんだなあ、と実感する今日この頃でございます。みんな、私の運気を貰いにきてもよくってよ。おほほ(←すぐ調子に乗る)
さてさて、本題ですが、前回は、無意識に、母の人生をなぞり、母の考え方や感情に自分を寄せてきた私の話でした。
この気づきは本当に大きく、ブログには書けなかったもう少しディープなことがらへの気づきもありまして、
私は、母を手放して自分固有の人生を生きると決意し、
かつ、母を始めとした母方の祖母やご先祖が男性社会の中で夫の庇護なくして苦労したこと(カルマと言ってもいいのかもしれません)について、供養と言いますか、彼女らの痛みの感情を私が感謝しつつ浄化すると言いますか、そんな心地にもなりました。
そうしたら、とっても自分が軽くなった感覚がしました。少なくとも母と私の2人分の人生を生きてきたわけですから、そりゃあ重かったですよね。
その上に、大好物の罪悪感(笑)も、だいぶ荷を下ろしたとはいえ、まだ背中に乗せていましたし。
今日は、私が、生前の母に起きた出来事とその出来事による母の感情を驚くほど承継し、まだ握りしめていて、しかも自分の感情も加わって、それらの感情が私の人生に影響していた、という新たな気づきについてお話したいと思います。
・・・抽象的な説明が長いですね。具体的に話した方が分かりやすいと思いますので、具体的に行ってみよう。
私は、30代までにお付き合いした男性たちはみんな、それぞれ性格は違えど、全員、どちらかというとコミュニケーション上手でした。
今のようにLINE等のやり取りで連絡する手段がなかったことや現代の人々ほどお互い忙しくなかったことも影響しているかもしれませんが、毎日電話をして30分くらい、時には数時間話をしたし、お互いに好意を伝えるのにも屈託がない感じ。
ところが、以前にも書いたように、ロースクール時代の元カレと別れてから恋愛がうまくいかなくなりました。
私の罪悪感から助けたい症候群にかかり、あえて困難なお相手を選ぶようになりました。
その中でも衝撃的だったのは、ものすごー--くコミュニケーションが上手くいかない、というか、用事の連絡に対して返信がない、電話も出ない、でも時折謎の連絡が来る、という人です。
連絡が取れない、すなわち会う約束もできないので、デートは1回しかしたことがありません。
今でこそ、男性の既読スルーくらいには慣れてしまった私ですし(慣れたくないわあ、笑)、ネットでもちょっと検索すればそういう男性はかなり多いということが分かる時代でもあるのですが、当時は、そういう人と初めて接して、本当に驚天動地だったんですね。
だって、そんな人がこの世に存在すると思わなかったもの。これは悪意ではなく、知らなかったのです。
そういう調子でしたから、私は、その彼とお付き合いには至っていませんが、彼との細々として割と長期だったご縁の間には、何度か彼のピンチがあり、そういう時には連絡がありました。もちろん、助けて欲しいなどとは言われませんが、助けたい症候群の私ですから、自分ができることをしたり、何もできなくても話を聴いたりしました。
どうしてそこまでしたかというと、彼自身の境遇が私と似たところがあったと私が感じたことと、若い時からの知り合いでもあったので彼が本来優しい性格であることは分かっていたからです。
ただ、私がそのように尽くした(ってほどでもないですけれど)けれども、彼は相変わらず変わりませんでした。
私は自分が良いことをしたから何かお返しがあるはず!という期待でいっぱいでしたので、お礼の言葉やできたらプレゼントなんかを待っていたんですね。
でも、心理学の格言「期待は裏切られる」のとおり、彼からは何もありませんでした。
(とはいえ、後日気が付いたのですが、彼は彼なりに感謝の気持ちがあったとは思っています。)
そうこうしているうち、私は他の人のことを好きになったりして、だんだんと彼とは疎遠になりました。いや、もとから疎遠と言えば疎遠ですが(笑)
ただ、私の中では、かなり長い間、というか本当のことを言えばつい先日まで、喉の奥に引っかかった魚の小骨のように、彼に対する苦い思い、忌憚なく言えば、失礼なことをされた、恩知らずめ、という被害者意識による怒りがくすぶっていたのです。
他の人で似たようなことがあると、怒りのスイッチが入ることもありました。
自分でも、何だか怒り過ぎだな、と思うくらいに。
その彼以前の付き合った人たちは皆コミュニケーション上手でしたし、父や弟から私は愛されている実感がありましたから、その彼に過去の誰かを投影しているということもないように思いました。
なぜだろう・・・?ひょっとして過去世か?と思ったりもしたのですが。
ここで、まさかの母ですよ。
私は、どうやら、母が生前にお付き合いしていた人(もちろん上記の彼とは別の人)に感じていた感情を受け継いで、ついでに自分自身の怒りも溜め込んで、その感情を彼に投影していたようです。
母は、父が亡くなった後、私の知る限り2回恋愛をしていました。
2人目の人(ダンディ)については、以前触れたことがあります。
今日は、1人目の人(以下、「年下氏」)についてです。
年下氏(私よりは年上ですが)は、父が亡くなって会社で働き始めた母の最初に配属された部署の同僚でした。母が当時37歳くらいで、年下氏はまだ20代後半だったはずです。
その当時、母の勤めていた会社は、株式上場を控えていて、バックオフィス部門だった母たちの部署はとんでもない忙しさだったそうです。バブル期だったこともあり、母がよく深夜にタクシーで帰宅してきたことをうっすらと覚えています。
社会人13年のブランクを経てのフルタイム勤務、しかも横浜の奥地(笑)から都内への片道1時間半の通勤もあり、あの頃の母は本当に大変そうでした。
体重は一気に10㎏ほど痩せてしまいました。後に聞いたところによると、仕事のやり方や環境も、上場事務は当然のことながらみんな未経験、黒電話と電卓の時代からワープロと表計算ソフト(まだWindows登場前)の時代に変化しており、周囲の女子社員はみんな20代、かつての同期たちは出世して肩書つきになっている、と、想像しただけで、ああ、それは大変だねえ・・・と重たい気持ちになってしまう状況でした。
そんな母に仕事を教え、一緒に業務を担当したのが、年下氏でした。
頭が切れて合理的で繊細で本の虫で若干シニカルな彼は、母とよく気が合い、みんなで、或いは2人で飲みに行ったり遊びに行ったりしていたようです。
何で年下氏のことをこんなに知っているかというと、私も母を交えて何度か会ったことがあるからです(笑)
しかし、年下氏は、繊細なあまりうつ症状を呈して会社をよく休む人でした。その期間は時に数週間に及び、当然のことながら、有休は消化してしまい、病欠扱いだったのだと思います。
今の私であれば、有給休暇全部消化をモットーとしていたくらいですし(笑)、何より自分の心身が大切ですから休むことは賛成です。
ただ、当時の社会情勢は、まだまだ心の不調で休むことについてネガティブで、年下氏は自分がしんどい上に周囲の無理解にも苦しんでいたようでした。
母は、そんな年下氏に尽くしていました。傍から見ていてやり過ぎじゃね?と思うほどに。
自分の仕事もあるのに、自宅とは逆方向でドアツードアで2時間半はかかる年下氏の家に、週に何度か行ってご飯を作ったり買い出しをしたりしていましたし、時に年下氏がうちに来てご飯を食べることもありました。
2人は付き合っている、とは思春期の私や弟には言いませんでしたので(母は結局死ぬまで年下氏と付き合っていたとは言いませんでしたので、厳密には付き合っていただろう、とは私の推測です。ただ、年下氏が母に結婚してくれと言ったという話は聞いたことがあります)、宿泊はありませんでしたが。
時期的には、私が高校1、2年のころ。80年代後半、昭和の終わり間際。
その頃には私もかなり口が達者になってきていましたし、正直言って年下氏に対する嫉妬もありましたので、母に対して、「いくら何でもやり過ぎじゃない?」と言ったことがあります。
母は、「私が会社に入ったばかりで一番苦しかったころに、助けてくれた人だから。」と言いました。
年下氏はいわゆるエリートでしたが、両親特に母親との関係に心理的な葛藤があり、憎しみに苦しんでいる、とも聞きました。
ぐうの音もでねえ(笑)
となった私は、もちろん自分のことでも忙しいし、それ以上母に言うのは止めました。
ただ、「あの人をお父さんとは呼びたくない」とは言っちゃいましたね。鬼娘やな、私。
そんなこんなだったのですが、その2、3年後には、母は所属部署が支店に異動になり、通勤時間も減って、ゆかいな仲間達と週末に飲んだり歌ったりサッカーや野球を観に行ったりして楽しむようになりました。
年下氏は、そのまま異動せず、出世して、ずいぶん年下の女性と結婚した、と母から聞きました。その頃、母はダンディと付き合っていたので、「良かったねえ」という感じでした。
母と年下氏の関係は、たまに話す機会があると年下氏が母を「おかん扱い」的にいじる、というものだったそうです。
なので、私の中では、結婚を決めた年下氏に対してちょっとムッとした記憶があります。「うちのおかんをあれだけ振り回しておいて、結局は若い女がいいのかよ」的な。いやまあ、当時の私も若い女だったんですけれども。
そして、年月が10年ほど経ちました。
私は、結婚し、実家に戻り、離婚し、ロースクール受験をして入学しました。
母は、会社と少し悶着した末58歳で退職し、私がロースクールに入った1年目の春に倒れ、秋には余命宣告を受け、翌年の2月に亡くなりました。
まだ母が親族や友人知人と連絡を取る元気があったころ、母は、元いた会社の同僚や友人知人たちの一部にだけ、病気のことを話していました。
その中には、年下氏も含まれていました。
しかし、ある時、母は、病気の話をしていない人達にまで、自分の病気が知られていることを人づてに聞きました。
聞けば、年下氏が「あのおばさん(母のこと)がガンになったって」と触れ回っていた、とのことでした。
母は、既に弱っていたこともあって、とても傷ついていました。
私は、言葉にも行動にもしなかったけれど(年下氏の連絡先も知らないし)、ものすごく怒りました。
それから、たくさんの人がお見舞いに来てくれたり、電話やメールや手紙をくれました。
年下氏は、お見舞いに来ませんでした。
私は、「本当に失礼な人。恩知らずめ。」と思いました。
年下氏は、母の葬儀には、来ました。
告別式で、弟や親戚の男性のほか、母の会社関係のたくさんの男性たちが母の棺を持って送って下さいました(葬儀場の指示で男性が棺を持ち運びました)。
年下氏も持ってくれました。ちなみにダンディも。
どのタイミングだったか忘れてしまいましたが、私は、年下氏に近づいて言いました。
「母の病気のこと、母の許可もなく広められて、母は傷ついていました。」と。
我ながら怖い。まじで。
書いていて自分の罪悪感が出てきちゃいました。
でもね。あの時の私には、言わずにはいられなかったのです。
だって、あんなに母が尽くしたのに。
恩を仇で返すって、まさにこのことじゃん。
私の大切なお母さんを馬鹿にするな。
母が言えないなら、
だったら、私が仕返しする。
事実だけを伝える。あなたは、母を傷つけたのよ。って。
だって、本当のことじゃない。
このころの記憶は、曖昧というか辛くてしんどくて忘れたいこともたくさんあって、私は、ほとんど思い出すことはなかったのです。
でも、母の感情を引き受け過ぎていたことを自覚して見つめていったら、思い出したのです。
こんなにも、私は、怒っていたんだ。
こんなにも、私は、母を守りたかったし、愛していたんだ。
だから、自分が罪悪感を抱くのも構わず、年下氏に報復し、かつ、それでも彼のことを恩知らずと憎み続けていたんだ。
その憎しみが、外側の世界に投影されて、私に対して恩知らずな対応をした人への怒りになっていたんだ。
この気づきは、かなり大きかったのです。
自分の心のエネルギーの固まっている部分(心理的ブロックといいます)が、しゅわしゅわと溶けて、流れが良くなり、大きなスペースが空いた感じ。
顕在意識で予想もしていなかったところに、私の怒りの原因はありました。
母の人生をなぞることを止めると決意した過程において、それは発見されました。
そして、心の流れを取り戻したことによって、色んなことが腑に落ちました。
きっと年下氏には年下氏なりの事情があったであろうこと、
病気を思わず広めてしまったのも繊細な彼が怖さのあまり1人で抱えきれなかったからで悪気はなかったかもしれないこと、
年下氏への私の憎しみには、母を取られたような嫉妬と、母に対して年下氏はイヤだと反対した私の罪悪感の裏返しがあったのだろうこと、
母は年下氏が病気のことを広めたことにがっかりしたようだったけれども、その感情を私が一緒になって感じなくてもよいこと、
母は実は年下氏には悪気はなかったことを分かっていたかもしれないこと、
あらためて、私は私の人生を歩めばいいこと、
冒頭に述べた連絡の取れない彼への怒りというかわだかまりは、すーっと消えていきました。
比喩的にではなく、本当に心が軽くなりました。
そして、私は、母の人生をなぞり母の感情を承継したけれど、これって、考えようによっては2人分の人生を1回で味わえたってことだから、お得じゃない?アーモンドグリコ的な(1粒で2度美味しい、笑)、と調子よく思ったのです。
また、間違いなく、母の感情を承継したことで、私という人間の器は広がりました。
更に言えば、もしかしたら、私は、母や母方の祖母たちが女手1つで子ども達を育てて苦労したゆえの男性社会への恨みつらみ(カルマと言ってもいいかもしれません)を解消するお役目があったのかもしれない、とも思いました。
さて、それで。
お母さん、ありがとう。
なんだか身軽になって、こわいようなワクワクするようなふわふわするような、そんな心地です。
これから、私はどうしようかな?どうしたい?
問い続けていきたいと思います。
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