皆様。こんばんは。
愛し合っていますか?
先日も同業者と意見が一致しましたが、弁護士というのは、不思議なことに、その時々に自分に必要なテーマのご相談や案件がやってくることが多いと思います。しかも立て続けに。
テーマは、直ぐ判明して「ああ~。はいはい。分かりました、向き合いますよ~」と納得したり、皆目見当がつかなかったけれど解決後に判ったり。いずれにしろ、成長しろ!というお知らせ又はチャンスなんですよね。
ちなみに、友人のカウンセラーやまだようこさんも同じことを言っていました。
今日も、2件、「急を要すると思ったが、とりあえず、急がなくて大丈夫になった」というご相談がありました。
不思議です。
今回は何のお知らせなのかはすぐには分からないので、テーマがやって来るのを待つこととします。
さて、前置きが長くなりましたが。
今日は、自己肯定のその先の話をしたいと思います。
私は、自己肯定感を高めるために、様々な取り組みをしてきました。
本を読んだり、ワークしたり、セミナー行ったり。
その甲斐あって、以前は、
●自分が少し我慢して人が喜ぶなら我慢すればいいや、まあいっか、それが皆のためだよね、
●ああ、こう振る舞った方が正解(批難されない、傷つけない)なんだろうな、空気読もう、
●せっかく声をかけてくれたんだから、行かなきゃ悪い(それに断ったら誘って貰えなくなるかも)、
なーんて、「いい人」が止められない他人軸星人だった私が、
○イヤなものはイヤだ!!!
○空気?何それ?美味しいの?空気だけじゃお腹が空いちゃうよ~~
○気が乗らなければ行かない。
となりました。
とはいえ、人に合わせ過ぎることを止めた最初のうちは、自分がすごくワガママになったような気がしたし、それまで私がいい人だから、便利だから、私の周りにいた人たちはいなくなるんだろうな、とも思えて、それすらも私には寂しく思えました。
どんだけプライドないねん。寂しがり屋やねん。って話ですが。
やっぱり、それだけ、2006年に母を亡くしてから一昨年くらいまでの12年のあいだ、当時の私には、帰る場所がどこにもない、という絶望的な虚ろな心の穴が、心の深いところに巣くっていたのだと思います。
しかし、徐々に徐々に弱くて情けない自分や人を傷つける嫌な自分も受け容れることができるようになって、あのどうしようもなくポッカリと空いた穴は、いつの間か埋まっていきました。
穴が埋まっていることに気がついた時には、「マジか!!!」と小躍りしたもんです。マジで。
それに加えて。
ここ最近は、「仮面を被っている感覚」がだいぶ無くなりました。
以前は、「話したい人がたくさんいるときは聞き役」「(最近あまりないけど)もの静かな人が多いときは話す役」「ツッコミたい人がいるときはボケ」「ツッコミ不足のときはツッコミ」「ぶりっ子が求められるときはぶりっ子」「求むサバサバならサバサバ」・・・と、結構、その場に応じて臨機応変にキャラを変えていました。
みんな大人になるにつれそういう側面はあるし、「できる社会人は空気を読んだことを気づかせないほどの気配りをする」と思っていてそこを目指していたし、特別私だけが我慢しているとは思わないし、キャラ変は当然だと思っていました。
でも、実は、こうした他人軸な振る舞いは、私の心の奥に澱のように疲れを溜めていたのです。
そして、いつしか、私は、自分のことを「いい人仮面を被っている」「本当の自分はどうしたいか分からない」と思うようになりました。
自己肯定感が上がるにつれ、そんなに人にばかり気を使って自分をおざなりにしていたことに腹が立ちました。
自分勝手と言われることを恐れつつも、自分の思いに正直に振る舞うようになりました。
だんだんと、心が楽になりました。
そして、そうしているうちに、「空気を読んでもいいし、読まなくてもいい。」と思えるようになってきました。
以前は、表面上の自分を「仮面をつけた私」、内心の自分を「本当の私」と思っていましたが、
嫌っていた「仮面をつけた私」も、他ならぬ自分自身であることが、腑に落ちたのです。
それは、「空気を読まなくてもいい」という選択肢、嫌われる勇気を持てたことによる大きな大きな果実でした。
だって、仮面とか言っても、そもそも、周りを傷つけたくなくて空気を読んでるんだもの。私の優しさじゃん!
と、肯定的に捉えられることができたのです。
自己肯定のその先で、世界の見方が変わっていく。
そうすると、ジャカジャカ幸運がやってきたり、する。
その②