人は鏡、とはよく言ったもので、私たちは、自分の感情を人に投影する。
人に優しさを見出だす時は、自分の中に優しさがあるからその人の優しさを見ることができるし、同様に、自分が嫌っている欠点(と思っている部分)、例えばそれが傲慢さなら同じように傲慢さを持つ人を嫌う。
殊に、近しい関係の人には、投影が強くなる。
かつてお付き合いした人に、私は、いつも、「あなたはどうしたいの?」と聞いていた。いや、正確に言うと、訊ねるという形で、責めていた。
でも、後になってから気がついた。
「どうしたいのか決めていないのは自分」だった、ということに。
もちろん私は、表面的な自分の望みは把握していたけれども、深いところの自分の本音には分かっていなかった、いや、何となく気がついているような感覚はあったけれども、そこを触ろうとすると余りにも心にザラッとした痛みが走るので、これ以上その箇所を見つめることは出来なかった。自分の冷酷な部分を見ることになるから。相手のせいにしているほうが、楽だった。
これに限らず、私が彼を責めていた内容のほとんどは、私が私に言いたいことだった。
心の距離が、近過ぎたのだと思う。
そして、それは、お互いの人生の歴史のなかで抱えていた痛み、罪の意識が、質量ともにどうしようもなく近かったからだし(彼の方が大きかったかもしれない)、
お互いの持っている優しさも同様に近しく大きかったからだと思う。
念のために言っておくと、不倫ではない。
(切なさを前面に出した文章だから、そう読む人がいそうだと思って(笑)まあ、別にそう読まれても構わないけれど。)
たらればだし、今からどうこうしたいわけではないけれども、もし、私が自分の本音から逃げずに向き合えていたならば、自分の弱さを受け容れることができていたならば、もう少し関係性は違っていたかもしれない。
お互いの弱さをもっと受け入れることができて、優しくできたかもしれない。
この恋愛から学んだことはたくさんあるのだけれど、もう1つ。
自分が自分をどう見積もっているか・扱っているかによって、人の自分に対する扱いが決まってゆく。ということ。
自分が我慢すれば丸く収まる、と人の顔色を窺うのが癖になっていると、その気持ち自体は間違いなく他者に対する愛情なのだけれど、いずれ「この人なら無理を聞いてくれる」と思われて自分が理不尽な役割を引き受けることになる。
その逆もしかりだ。自分を大切に扱っていると、他者からも大切に扱われる。
そして、自分を大切に扱っていないと、他者から大切に扱われる機会があってもそれを喜びとして実感することができない。どこか「自分に相応しくない」と、居心地悪く、遠慮してしまう。
それは、自分に対する自己イメージ以上の扱いは、慣れなくて恥ずかしくておそれ多い気持ちになったりして、受け取ることができないからだ。
念のため注意しておくと、人のために行動すること・人の思惑どおりに動くことが悪いというわけではない。「本当はイヤなのに」自分を犠牲にして人のために動くことは、我慢となり、いずれは爆発する、ということだ。人のために動くことが「自分の喜び」なら、そうした不満は蓄積しない。
ただ、よくあるのが(私もよくある)、最初は人のために動くことが自分の喜びだったけれども、その立ち位置や役割が固定化されてしまって、気がつけば大きな不満になっていることだ。それは、たいてい優しくて愛情の器の大きな人がそうなってしまう。
そうならないためには、自分の本音を知ることだ。
それが、自分を大切にすることに繋がる。
「今、これを、心からやりたいか、やりたくないか。」自分に問いかける。
ちょっとくらいなら、まあいっか、
他に誰もやる人がいないし、
やらないと可哀想、気の毒、
こうした気持ちはとても素敵な美しい宝石だけれど、
疲れている、しんどい、エネルギー不足な感じがする、
全体的にこの関係性では持ち出しが多い気がする、
そういう小さな声が、心の底から聴こえてきたら。
どうか、無理はせず。ご自身を優先して下さいね。
自分の本音を知ると、行動が変わり、周りも変わる。
私の恋愛の例で言えば、私が自分の本音を知っていて自分を大切に扱っていたならば、彼の優しさをもっと受け取ることができていて、もっと幸せを感じていただろう、と思う。
自分を大切にしてあげて、エネルギーが満ちた状態で、心からの喜びとして、人のために動くと、結果として、みんなが幸せになる。
そして、一見酷い本音だとしても、それは自分を守るという愛情だったりするから、自己嫌悪をする必要はないのだ。
(まあ、そうは言っても、こういうことで悩むのは優しい人だから、自己嫌悪しちゃうんだけど。)