「あなたは、余生を生きている。」
そう言われたことが、何度か、ある。
確かに、そのように思ったことも、何度かあった。
初めは、離婚した後。
これからの人生、どうするか迷っていてロースクール受験を決めた時、受験を誘ってくれた大学時代の友人から言われた。
正確には、「私たちは、余生を生きているみたいなもんだし。」というニュアンスだった。
当時、彼女も離婚して、留学して、日本で転職して働いているところだった。
彼女は、「私たちは早稲田の法学部を出ているんだから。」ということを、折に触れて言っていた。
私は、正直言って、自分の学歴が素晴らしいものだとは思えず(第一志望に進学したにもかかわらず)、心の中で「いや、上には上がいるし。」「学歴をそんなに誇りに思わなくてもいいじゃん。」などと批判的に思っていた。
でも、何か事を起こそうと思った時、学歴が、というよりは、そこまで努力できた過去の自分が、いつもその当時の自分を助けてくれた。
彼女は、その価値を見ようとしない私に発破をかけてくれたのかもしれない。
そして、「今は既に余生である」という認識を持つことによって、私はずいぶんと気が楽になった。
余生なんだから、楽しめばいいや、と。
もちろん、ロースクールでの勉強は、当時30代前半で20代は遊び惚けていて勉強の習慣もすっかりなくなっていた私にとっては、楽しむ余裕などなかった。
大学受験の比ではなく、授業の予習復習を含めて1日10時間程度の勉強をほぼ休みなく毎日繰り返し、授業では発言を求められ常に同級生たちと比較競争し、自分の不出来さに落ち込み、そうでありながらも自主ゼミをするなどして切磋琢磨し合ったり、優秀な同級生や先輩を見習ったり、先生たちとコミュニケーションしたり、という複雑な人間関係だった。
みんな、自分の人生がかかっていたから、私も含めてほとんどの人が必死だったと思う。
中途退学した人もいた。
それでも、どこか、ほんの少しだけ、私にとっては、余生感があった。
次に余生だと感じたのは、ロースクール在学中に母が亡くなった後。
両親ともこの世からいなくなり、それまで「自分のために生きる」ことをサボっていた私は、誰かのために生きることができなくなって、人生的には迷子になった。
とはいえ、持ち前の生命力ゆえか、生きていくためには司法試験に受かるしかないという強い思い込みがあったためか、当時の恋人や友人たちの多大な力と弟や親戚の応援をもらって、目標を達成することができた。
でも、どこか余生なのだ。
その次に余生だと感じたのは、もう子どもを産むことはないだろうなと思った時。
更にその次は、元カレと別れた時。
で、こう書き連ねてきて思うのが、「余生、余生」と言っておきながら、こう何度も余生の区切りが来るってことは、全然余生じゃないやんけ!ということ。自分ツッコミせずにはいられないよね。
ただ、余生って、必ずしもマイナスのイメージではなくて。
例えば、私にとっては、「余生だ」と思うことによって、あえて1人を選択して、人を巻き込まず人生のチャレンジをしてきたという側面もある。
(ここで、人を頼るという発想がなくて「迷惑をかけられないから1人で行きます」というのが私の持っている前提の笑えるところなのだけれど、その話は措いておく。)
例えば、「余生だ」と思っていたから、歯を食いしばってはいるのだけれどもどこかほんのちょっとだけ余裕というか遊びみたいなところがあって、だから私は病気にならなかったのかもしれない。
(病むことが悪いとか健康が偉いとかいうことでは、もちろんない。)
やけっぱちになって自暴自棄になっているというわけでもなく。
もうここまで十分頑張ってきたから、残りの人生楽しみましょう、というスタンス。
それで良いのかもしれないな。と、最近は、思っている。
もちろん、現実面の課題はあるとしても。
いいじゃないの。余生。ちょっと早かったかもしれないけどさ。