皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
小川正美です。
いやはや、久々の年末モードで、バタバタしております。夜が塞がることが多いから必然的に稼働時間が減って昼間の時間に仕事でバタバタしちゃうのよね。
先週は沖縄旅行にも久々に行ってきたし。沖縄はやっぱり癒されますね。ニャンズはご近所のMちゃんにシッターをお願いしたので、任せて安心。また行くぞ~!
さてさて、最近、どんな自分も受け容れて認めて許して愛する1人キャンペーンを行っている私ですが。
自分を愛することの大切さはここ数年かなり世間に浸透してきたし、そのための手段・技術はたくさんあるけれど、
「私は私の嫌なところも一生愛すると決めてしまう」
のも良いと思う。結婚式の宣誓のように。
自分勝手でも理不尽でも依存的でも残酷でも冷たくてもズルくても。
すると人も許せるから。— 小川 正美/たまに戦う弁護士・心理カウンセラー (@MasamiOgawa_LLL) December 12, 2021
自分の好きなところは受け容れやすいんですよね。当たり前だけど。
私だったら、例えば、優しい、親切、人の気持ちが分かる、自分のセンス、コミュニケーションにおける器用さ、とか、そういった類の。
そして、当たり前だけど、自分の嫌いなところは受け容れにくい。何しろ、嫌いなんだから(笑)
「嫌いなところ」というのは、いわゆる短所である場合もあるけれど、長所であることもあります。
長所、得意なことによって、過去に傷ついた経験があったりすると、その自分の長所すら憎んでしまうことってありますよね。
例えば、性的魅力があるゆえにいたずら、性犯罪、セクハラに遭ったりすると、自分の性的魅力を嫌うようになってしまうこととか。嫌うあまりに、女性らしい服装をしなくなったり、お化粧やオシャレに興味を持てなかったり、自分を女性として扱われることに抵抗が出たり。
私個人の体験としては、若い頃には痴漢やセクハラにもまあまあ遭ってそれももちろん嫌だったけれど、それよりも、正直、弁護士になってから常に「仕事上付き合いやすい女性弁護士」であることを演じ続けたことによる緊張感の方がしんどかったです。
それは、男性が8割以上を占める業界で男性と全く同じ立ち位置で働き始めた時に随所で感じた、「快活で明るい女性らしさ(母性的だったり、お茶目だったり、一定程度の姫キャラだったり)は歓迎されるが、少しじっとりとした湿気の多めの陰のある女性らしさ、おしとやかさはあまり好まれない。なぜならば、そのような女性が弁護士の仕事をすることが一般に想定されておらず、男性たちが扱いに困るから。」という強い観念に起因していました。
しんどかったのは、湿気多めの静かな女性性も、私の構成要素だったから。しかも、結構多分にそのような要素があるのに抑圧していたから。
そういう陰的な女性キャラを前面に出すと、周りの人々が私の扱いに困ってしまう、そして、私自身が生きづらくなってしまう、ような気がしていました。
だから、自分の女性性の一部を抑圧して、明るかったりお茶目だったりする好かれやすい部分を外には出していました。
だから、私は、自分の静かな陰的な女性性を嫌っていたし、もっと言えば、本来の自分の女性性を抑圧せざるを得なくなった原因(と思っていた)である弁護士という仕事も、嫌っていました。本当の原因は、もっと昔の経験にあったのだけれど。
一見長所なのに嫌いと言えば、頭が良いこと、言語感覚が鋭敏でかつ論理的な文章も書けること、人の悲しみやツラさを受け容れるだけの器があることも嫌いでした。
頭が良いことに関しては、頭が良いより顔が良い方が男子からモテるからいいよね、と中学生時代に思ったのが始まりだったと思います。その後、環境の変化に伴い自分と同程度かそれ以上に頭脳明晰だったり人間的賢さが優れた人々と出逢うにつれて、徐々に自分の頭の良さを嫌悪しなくなったものの、弁護士になって「世間」というものと対峙しながら仕事をしていると、やはり自分の頭の良さが人を傷つける(正確に言えば私が男性性を発揮すると反射的本能的に男性がマウント返しをする)と感じる機会が多くなりました。この点は、私の男性性と女性性が傷ついていて仲が悪かったからだと思うのですが、それはさておき。
言語能力については、仕事でもプライベートでも、私の書いた文章は「刺さり過ぎる」ことがあるようで、弁護士という常に何件かは戦闘態勢である仕事をしていることも相俟って、「私の文章は人を傷つける」という観念が出来上がりました。まあ、この点も、そういう文章能力があること自体より、そういう文章を書かずにはいられない私の心の問題だったんですけれども、それもさておき(笑)
人の感情に敏感で悲しみやツラさを受け容れる器があることについては、自己嫌悪や罪悪感の強さゆえの補償行為でもあったし、自分自身の悲しみや寂しさやツラさを人に投影して受け容れることもありました。いずれにせよ、自分自身を二の次にしてしまう他人軸な癖がありました。この点も、自分軸を取り戻して罪悪感を手放していくにつれ自分を守ることができるようになってきましたが、それはさておき。
でも。
陰的な女性性(色気も含む)だって、頭が良いことだって、言語能力だって、感情的に敏感で器が大きいことだって、全部、才能なのですよ。自分で言うのはおこがましいけれども。
さて、このブログではちょくちょく書いていますが、私は、自分には弁護士は向いていないと思っていました。
弁護士である自分が嫌いでした。
なぜなら、私は、自分の理想とする弁護士に程遠く、正義を実現する強い意思に溢れているわけではないし、バリバリ稼いでいるわけでもないし、仕事に強くやりがいを抱いているわけではなかったから。
弁護士というのは相手方や時にクライアントさんから恨まれる仕事で、現に私も理不尽な目に遭ったことが何度かあります(ごく最近もあります(笑))。危険な目に遭ったり刑事事件の被害者になってしまうこともあります。
悪態をつかれたり嫌がらせをされたりした時には、弁護士という職業の持つ権威的なイメージと私のイメージが合致しないからだ、私が女だからだ、と自分を責めました。
100パーセント満足な結果が出ることの方が珍しく、自分の無力さに打ちひしがれたこともある。
近づいてくる人のことを「私が弁護士だからなのかな。利用しようとしているのかな。」と疑心暗鬼になることもある。
弁護士であるゆえに男性のプライドをへし折ってしまったかな、と気を遣ったり傷ついたりすることもある。
自分の発する言葉の重みや責任ゆえに、口が重くなることもある。
経済的には自営なので不安定だし、報酬のことでクライアントさんと悶着することもある(後者は最近はない)。
「正しさ」による解決だけでは人は幸せになることができない、心から自分や現状を受け容れることができなければ幸せではない、と分かりつつも、そういったことをお伝えできる・理解できるクライアントさんばかりじゃないことにも疲れていた。それはご本人の本質がというより、状況がそうさせているのだけれども。
それなのに、持ち前の負けん気の強さや迸る生存本能ゆえ、仕事で勝ち過ぎてしまうこともあった。
そうかと思えば、気力体力が突然ダウンしてしまい、急に2日も3日も休んだりする。その間、自分の体力の無さや心の弱さを責めていた。
私を養ってくれるパートナーがいたら、又は宝くじが5億円当たったら(笑)、すぐさまこの仕事を辞めたい、と思ったことも、一度や二度ではない。
とにかく、私は、弁護士である私が嫌いでした。
ちっとも仕事にワクワクしないし、クライアントさんとの心の繋がりを感じられないし(と思い込んでいた)、自分がクライアントさんの喜びだなんてもちろん思えないし、本来の自分ではない違う自分にならないと続けられない仕事だと思っていました。
陰的な女性性(色気も含む)だって、頭が良いことだって、言語能力だって、感情的に敏感で器が大きいことだって、弁護士であることだって。
客観的に見たら、長所と捉えることはそう難しくないでしょう。
でも、「客観的に見て長所だから受け容れる」のでは、私の心は、ちっとも安心しないのです。喜ばないのです。
ただただ、「それが自分だと受け容れる」。
受け容れると、決める。
客観的に優れているがゆえに苦しい、でも、それが自分なのだ、と受け容れること。
他人がどう思うかは関係ない、とバッサリ切りたいけれども、やはり気になってしまう、それも自分なのだ、と受け容れること。
皆があなたのように強いわけではない、と言われて、どうしようもなく孤独でも、その強さを受け容れること。
人付き合いに対して慎重で心を開くようで開かない、そうかと思えばふとした拍子に感情が駄々洩れになってしまう、それも自分なのだ、と受け容れること。
依存的な人に対して冷酷なことを言った後、相手の存在の力を信じて手を貸さない、それも自分だし、逆に、自立的過ぎる人に対してもっと人に甘えたらいいと甘やかそうとする、それも自分で、そして人が見せてくれる依存的要素も自立的要素も全て自分にあるものなのだ、と受け容れること。
負けん気が強くて勝つのが好きで、お調子者で、人から可愛がられる、それも私、と受け容れる。
じっとり湿った熱帯雨林の森のような、ただただ寄せては返す波を抱く海のような、或いは北の氷の大地のような、それも私、と受け容れる。
弁護士であること。私らしい弁護士でしかいられないこと。
あなたが弁護士でいてくれて良かった、あなたのような弁護士がいてくれて良かった、と言ってもらえること。
様々な素晴らしい人々と出逢うのに、ファストパスならぬ弁護士パスを使わせて貰えてラッキーと思っていること。
それも私、と受け容れる。
自分の中の、怖がりだったりズルかったり自分勝手だったり冷酷だったりして、私から嫌悪されて泣いている小さな私がホッとするまで。
「ありがとう」という気持ちが自然と沸き起こってくるまで。
そこまで受け容れた時、私の心が喜びに震える。