皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
ここのところ、すっきりとした穏やかな秋晴れが続いていて、とても過ごしやすいですよね。
そんな中は、私は先月収穫したお米を精米して、ついに食べました!自分で作った新米を!もちろん無農薬!
いやあ、美味しいわあ。
人生長く生きていると、だんだんと「人生初体験」が無くなってきて、美味しいものを食べても豪華な場所に行っても美しい景色を見ても心揺さぶられる芸術作品を観ても、感動はするけど幅というか上限が予想通りになって若干不感症気味になってしまうものですが、自分で田植えして草取りして稲を刈ったお米を食べることができるって、かなり嬉しい体験ですね。
たった4か月でこんなに育って人が食べられるようになるなんて。稲って、自然ってすごい。
もちろん、稲を脱穀して精米して炊いて食べたりお酒にしたりした昔の人もすごい。
と、お米日記を書いたところで、本題です(笑)
最近、イライラや怒りなどのネガティブ感情祭が起きていた私ですが、そして、結構このなぜかイライラする傾向は私以外の人にも多く見られたのですが(そういう時は星回りのせいにしておく)、
自分も、人も、怒りたいだけ怒っていれば、いい。ネガティブな感情を出したいだけ出せばいい。
と思っているのです。今日、クライアントさんにも話したぞ。
もちろん、ぶつけられるのはイヤですが(笑)
その理由は、
第一には、もちろん、出てくる怒りを止めて抑圧したって数十倍に膨らんで膨らみ切った風船みたいに爆発するだけだから、初めから素直に出した方が大事故にならずにすむ、
また、ネガティブな感情を感じたものは仕方がない、無かったことにして抑圧する=自分を騙すよりも、感じ切った方がむしろスッキリする、
という感情の大原則的なことですが、
第二には、怒りをはじめとしたネガティブな感情にも、メリットがあるからです。
例えば、怒りの強大なエネルギーをバネにしてリベンジ魂を熱く燃やしてガーッと頑張って自分を変える(社会的地位、外見、中身など様々なものを変える)こともメリットの1つなのですが、
今日は、そこを話したいのではなく!(力説)
自分がネガティブな感情を感じることで、自分の学びにもなっているし、場合によっては人の学びにもなっているから。
なのです。
前者について、説明します。
ネガティブな感情やそれを感じさせる出来事が起きたときって、ある程度気持ちや状況が落ち着いた後は、私は、「この出来事が自分に起きて、この嫌な感情を感じた意味は、何だろう?」「自分の中の何がこういう出来事を引き起こしたのだろう?」と考え、思いを馳せるんですね。
そうすると、以前にも似たようなシチュエーションで似たような感情を感じたことを思い出し、「これは自分のパターンだ」と認識することができます。
パターンを止めたければ、原因を究明して原因となった出来事とその時の自分の感情を様々な方法で癒すこともできますし、場合によっては思考で「あっ、あの時のあのことか!」と気づいた時点で感情が癒されることもありますし、イメージや体感を使って感覚的に癒す方法もあります。
結果として、自分のパターン、例えば、人の顔色を窺って我慢したり空気を読み過ぎる癖、我慢し過ぎて爆発する、人が不機嫌になるくらいなら自分が悪くなくても謝って丸く納める、人から嫌われることを極度に恐れる(これは最近無くなってきた)、自分の短所と人の長所を比べて自信を喪失する自己否定癖、人を試す癖、人間不信、自己不信、本音ではなく正論でコミュニケーションする癖、等々が無くなったり、残っても軽くなったりするので、生きやすくなるのです。
また、ネガティブな感情や出来事(例えば、離婚、身近な人の死、大失恋、いじめ等による被害感情)を手放して、自分が人として成長したことを受け取ることができると、その出来事があったからここまで来ることができた、と感謝をすることもできます。
そう、一見、というか事の始めはネガティブだった感情や出来事も、最終的には、良いこと・ポジティブなことになるのですよ。
後者の「自分のネガティブな感情が場合によっては人の学びにもなっている」についてお話します。
これは、かなりの信頼(自分に対しても、相手に対しても)がないと奏功しないだろうし、むやみやたらに使うと関係性が破壊される可能性もあるので、使用上の注意を良くお読みになり用法用量を守って(笑)自己責任で採用して頂ければと思うのですが。(と、言い訳を満載しておく。)
上で述べたように、自分がネガティブな感情を感じることは、自分にとっての学びのチャンスです。
「今」その問題(に付随するネガティブな感情)が浮上してきたのは、その感情を癒したりパターンを変えることができるタイミングがやってきた!ということなのです。
良く言いますよね。ピンチはチャンス。人生にはその人に乗り越えられる問題しか起きない。って。
で。これって実は、自分の言動によってネガティブな感情を感じている相手、例えばあなたがイライラをぶつけたり怒ったりしている相手から見ても、同じだと思いません?
ていうか、同じなんですよ(同意を求めておいて結局言い切る弁護士らしいやり口)。
あなたがぶつけたネガティブな感情は、何かしら、相手の学びになっている。
だから、いいんですよ。
怒ったって、泣いたって、悔しがったって、怖がったって。
もちろん、嫌われるかもしれません。
やり返されるかもしれません(笑)
それどころか、人間関係が破壊されるかもしれません。
でも、変な話ですが、それはそれ。
自分にも相手にも、学びになっていることには、違いない。
そこで人間関係が終わるなら、今(今世?)は、そこまでのご縁ということ。
ただ、そこまで感情をぶつけられるっていうことは、その人に何らかの信頼がある、逆説的ですが心を開いているっていうことなんだろうな、と私は思うのです。
大人になればなるほど、ホントの気持ちを隠すのが上手になり、ホントの気持ちを出すのが下手くそになりますからねえ。
前々からちょいちょい述べているのですが、私は結構色んな人からネガティブな感情をぶつけられがちで(ということはポジティブな感情もたくさん貰っているのですが)、私的モラハラ考を書くくらいモラハラを自己研究しつつ、「自分がされて嫌なことは人にはしない!」といい子ちゃん路線をまっしぐらに走ってきました。
ただ、今日、この「自分の怒りが人のためにもなっている」という気づきを得たおかげで、「あ、もう出してもいいや」と思えたのです。
そして、同時に、これまでの人からの理不尽な怒り等の数々についても、「ああ、私の学びのためだったのね」と改めて思いました。
で、ネガティブな感情を出すことはベースに信頼がある、と思えたので、
まあ、出したければ出せばいいよね。でも、私も理不尽に怒るけどな!(笑)
と思ったのでした。
★参考記事
まあ、世界の女神様も結構怒ってるし。。。
★こんな私の正論と理不尽のあいだみたいなことを言うセッション
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