自分が死んだら、お墓は要らない、海に散骨してもらえればいい。
そういう風に、話す人がいる。
その理由は、もちろん人それぞれなのだろう。
残った人にお墓周りのあれこれで手間や迷惑をかけたくない、
儀式などの形式ばった形で自分を思い出してもらっても嬉しくない、記憶の中に在ればそれでいい、
何より、自分のためにそんなにたくさんのことをしなくてもいい、そんなに悲しまなくていい。
等々。
私は、そういう話に共感する。
そして、感じるのは、
こうした「お墓は要らない」という話をする人たちは、たいてい、とても優しい。
ただ、上に述べた理由たちを、投影の観点から捉えるならば、
彼らは、
残った人として、お墓周りのあれこれについて手を尽くし、
儀式などの形式ばった形で亡くなった人を思い出す人々を見て、それよりも記憶の中に在る方が大切だと感じ、
何より、亡くなった人のためにたくさんのことをして、悲しんできた。
だから、自分の時は、散骨でいい、と思うのだろう。
たくさんの死を見つめて、心の底から哀悼してきたから、そう思うのだろう。
ただ。
今の私は。
だからといって、「自分の時はこれでいい。」と言うのは、
誤解を恐れずに言えば、
自分の心の傷と痛みを、生のまま或いは冷凍保存したまま、癒すことなく、生き残った人たちに曝け出して手渡しするだけの、少し拗ねた、行き過ぎた表現かもしれないが無責任な行為であるように思う。
とはいえ、もちろん、儀式が正しいという話ではない。散骨が間違っているという話でもない。
人が亡くなるということを通じて、傷を、痛みを、感じてきた、その経験を、
人を、人生を諦めない、という方向に転換してもらえたら、と思うのだ。
何より、彼ら自身を、諦めないで欲しいのだ。
私も、私を、諦めないでいよう。