食器を洗ってから家を出るようになったのは、確か、司法修習生のころだ。
お恥ずかしい話、それまでは、家に帰ってきてから片付ければいいや!と思っていた。
それが変わったのは、刑事裁判修習で、殺人事件の事件記録を読み、その中の被害者宅の実況検分調書と写真撮影報告書の、
「被害者宅の居室内が散乱している状況」
「台所の洗い場に食器類が置かれている状況」
といった記載と写真を見たことが、きっかけだった。
亡くなった被害者は、私より少し年下の女性、一人暮らしかお子さんと2人暮らしだったか失念したが、どちらかだったと思う。
事件の具体的状況については割愛するが(プライバシー保護はもちろんのこと、読みたくない方もおられると思われるので)、
私は、それ以来、自分が出先で何かあった時に台所のシンクに汚れた食器があるのはイヤだな、と思い、外出する時にはできる限り食器を洗ってから出かけるようになった。
なぜだろう。
私は、そんなに几帳面なほうではない。
掃除が行き届いていない時だってあるし、出かけてからガスや鍵が気になることもない。
むしろ、玄関の鍵を開けっ放しで外出したことも数回あるくらいだ(特に実害はなかった。さすが私(笑))。
最初のうちは、
万が一のことがあったときにこんな風に公文書に記録されたら恥ずかしい、という羞恥心だった。
どちらかというと、不安が多めだった。
そうした不安や羞恥心は、
次第に、
いつ何があるともしれないな。
と、この世から去る準備のような思いに変わっていった。
死にたいわけではない。
消えてなくなりたいわけでもない。
ただ、外出する前に食器を洗うことによって、
私は、日々、自分の肉体としての生命がいつかなくなるという心積もりをしていて、
そこから、反射的に、今、生きていることを確認し、その有り難みを享受しているのかもしれない。
普段の日常では、そこまで意識していないことがほとんどだけれども。
何となく、今日はそんなことを意識する日のようだ。