皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
たまに戦う弁護士の小川正美です。
あ。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
新年早々、またまたまた例の訴訟の件なのですが。今数えてみたら、2022年に14本もこの件で記事を書いてました。すごいな。私。どんだけこの話が好きなんだよ(笑)
早速ですが、前回お話しましたように、昨年末、例の訴訟の第一審判決が出ました。
相手方(原告)の請求は棄却、私の反訴も請求棄却。
喧嘩両成敗的な結論です。
まだどうなるのか分かりませんが、相手方は控訴するんだろうな・・・そしたら私も付帯控訴するのか・・・めんどくさ・・・と思って、年末年始も、正直、若干うんざりしていました。
ですが、今日、気が付いたのです。
私がうんざりする理由は、「だって私が正しいもん。」という気持ちが私の中にまだまだたんまりとあるからだということに。
そして、この「私が正しい」という気持ちこそが、この紛争を終わらせていないことに。
ええ、ええ。確かに、私が正しいんですよ。弁護士会や裁判所の判断では。
言いがかり懲戒請求7年、言いがかり訴訟に1年、足掛け8年。
私は弁護士になって15年目になったところですから、本訴の時から遡れば弁護士人生の大部分の期間、この件にエネルギーを一定程度費やしていることになります。
しかも、家族間の感情のもつれであり、兄弟間でコミュニケーションを取ろうと思えば取れるのに、全くその気配がない。部外者の私に八つ当たり的にクレームが来ている状態。
私は被害者だー-!!って言いたくなりますよ。そりゃあ。
めちゃめちゃしんどかったですよ。
もちろん、周りの人々も共感・同調してくれますしね。
でも。
今日、気が付いてしまったのです。
この「私が正しい」という気持ちこそが、この紛争を終わらせていないことに。
人間心理に造詣のある方はご存知だと思います。
自分の正しさに執着をし続けると、相手を悪い人・間違っている人にしてしまい、対立は永遠に続くということを。
大きなもので言えば、繰り返される紛争もそうだし、身近なところでもたくさんありますよね。パートナー、親子、職場の仲間、取引先、友人知人・・・。
「正しい」人から「間違っている」と言われた人は、反発します。
自分が間違っていないと思っている場合はもちろんのこと、自分の感情やあらゆるルール(法令、慣習、常識、道徳等)に照らしても確かに自分に非があるような場合であっても。
そして、反発し合うエネルギーがぶつかり合ってお互いの理解が深まり仲直り等に昇華できれば良いのですが(同じ目的と利害を持つ仲間などは仲直りしやすいかもしれません)、
仲直りにいずれにもメリットがなく、むしろ互いに「勝たなければ自分がやられる」ような状況の場合(国境や資源の紛争、出世争い、相続争い、等)、
正しさの争いで負けた方は、更なる戦いを挑んだり、防衛の強化に励みます。
怖いからです。負けることが。
負けてしまったら、自分がこれまでコツコツと積み上げてきた全てを強奪されるような気がするからです。(実際、歴史上の勝者はほとんどが強奪をしてきました。)
だから、絶対に負けられない戦いにおいて、敗者はリベンジを試み、「自分は正しい、間違っていない」ことを証明しようと躍起になります。
私は、それを理解しているつもりでしたから、この件に限らず、正しさに固執しないことが紛争を早期に解決するコツだと思い、行動してきました。
この件でも、悪戦苦闘しながらも自分の正しさを手放してきたつもりでした。
「彼(相手方)は私自身のシャドウであり、抑圧してきた攻撃性や依存心を見せてくれているんだ。」ということを少しずつ受け容れて。
ただ、この件の場合、裁判という社会システム上の紛争ですから、勝敗は、このシステムのルール(法律)に則って、遅かれ早かれ確定します。
そして、私は、おそらく法的な正しさを自分が得ることができるだろう、とは思っていましたし、今も思っています。
彼の主訴の1つは、私が彼の亡父の代理人として提起した彼の妻と亡父の養子縁組の離縁訴訟(とその前提としての離縁調停)において、私の訴訟活動が彼と亡父及びその兄弟等との関係を悪化させたため精神的損害を受けた、というものでした。
この時、第一審の裁判所は、彼と彼の妻が亡父に対して行った数か月間の短い介護において詳細は省きますが客観的な問題があったと認定し、さらに、その後彼の妻と亡父は交流が断絶したことから、養親子関係は破たんした、と認定し、離縁を認める判決をしました。
私が、この離縁訴訟における主張の過程で、彼の心を傷つける表現をしなかったといったら、嘘になります。
その当時の私の言い分はこうです。
「だって、クライアント(亡父)がそう言って泣いているから。他の兄弟たちもそう言ってるから。それに客観的な証拠もある。」
「私は、クライアントの言い分を、これでも相手方(彼と彼の妻)を傷つけないようマイルドに表現した。」
「これが弁護士の仕事なんだから仕方ないじゃない。」
そして、離縁訴訟の判決後、彼が私に対して懲戒請求や損害賠償請求訴訟を提起しても、私の訴訟活動は離縁訴訟における争点にかかる事実を立証するためには相当な範囲内である、と弁護士会でも裁判所でも認定されました。
この頃、つまり2022年当時の私の言い分はこうです。
「確かに、私ももっと相手方の性格や立場に配慮した訴訟活動をするべきだったかもしれない。」
「そして、やっぱり、この状況を創り出したのは私だ。いい悪いではなく。」
「でも、裁判所的な真実では、私は正しい。そして、彼の問題は彼と彼の家族が何とかすべきこと。私は巻き込まれている。」
そう。何だかんだと言って、私は、自分の正しさを手放したつもりでも、「裁判所的真実=私が正しい」を錦の御旗としていたのでした。
だから、私は、相手方に対して、
「裁判所的真実とあなたの真実が違うのは分かってるけど、それはあなたの心の持ちようの問題。」
「あなたがお父さんとの仲は悪くなかった、父親は自分を愛していたし、自分も父親を愛していた、と思うんならそう思っていればいいじゃない。」
と思っていました。まあ、そりゃあそうなんですけれども。正論なんですけれども。
ただ、私は、
「私だってあなたを無碍に傷つけたくて訴訟活動をしたわけじゃない。仕事なんだから。分かってよ。」
という自分の要求は(心の中ですが)しつつ、
相手方の気持ちを理解はしていなかったなあ。と、今日気が付いたのでした。
親の愛情の奪い合いで、5~60代の子ども達の遺産分割協議が10年も続いたりすることもある。きょうだいが多くて社会も貧しかった昭和前半世代ほど、親の愛情に飢えているのかもしれない。
実の父親から、妻が被告とはいえ実質的に自分も、訴訟を提起されるのってどんな気持ちなんだろう。
他の兄弟と比べて自分は。。。って、どうしたって思っちゃうかもしれない。
父親の述べたこととして認定された主張も、そんなの嘘だ!って言いたくなるかもしれない。
子どもの時はどんな父子だったんだろう。大正生まれの父親だったから愛情表現はあんまりなかったのかもしれないなあ。
今現在、彼にとっても晩年であるのに、実の父親から嫌われた、と思うことはツラいだろうなあ。
などと、思いました。
そして、オガワは頭がおかしくなったと思われるかもしれませんが、
なんかもう、彼が彼自身で裁判所的真実を排して彼の真実を採用することができず、どうしても私の非であることにしたいのであれば、そうすればいいじゃん。って思ったのです。
あ。お金は払いませんけど。。。何しろ請求額が800万円なので払えません(笑)
私の非にしたいのならそうすればいいじゃん、っていうのは、やけくそではなく。
だって、私は、確かに、あの時、クライアントたる彼の亡父から彼とその妻を憎々しげに言うのを聞いたけれど、
彼らの人生の全部においてそういう関係性だったかどうかなんて全く知らないわけですから。
そして、おそらくですが、亡父の創った会社にずっと勤務していた彼は、父親から愛されていなかったわけではないと思うのです。
だとしたら、裁判所的真実を排除して、彼は、彼の中の真実を採用したらいいと思うんです。
私のしんどさ、ツラさ。仕事なんだからしょうがないじゃん。って気持ちなんて、分かって貰わなくていい。
(いや、そりゃあ分かって貰いたい気持ちは山盛りありますが、私は、私自身や、他の人達が分かってくれるからいい。)
彼が、あの当時、実の父親にしたことも、そうせざるを得ない理由があったのだろうし、もしかしたら父のために良かれとすら思っていたかもしれない。
そのあたりの事情や感情の言語化はなされていないため、私にはわかりませんが。
私は、ずっと、彼の執着から逃れたい、と思っていました。
まあ、当たり前ですけれども。
リアルでストーカーされたらどうしよう、と怯えた時もありましたし、
でも、今の私は、実は、「執着から逃れることに執着している」状態なんだな、と思いました。
ややこしいですが。
だから、どうしても、正しさを手放せなかった。
私が正しくない、ということになったら、相手方はそれを笠に着てものすごく私を攻撃してくるんじゃないか、って怖かったから。
いや、正直、今でも怖いです。
けれど、今のこの状況を創ってきたのは、ほかならぬ私自身なのです。
責任者は、私。
だとしたら、もう、執着から逃れる執着を手放して、私は、
彼の敵ではあるけれども、
そして彼と仲良くすることはおそらく一生ないだろうけれども、
彼の好きにすればいいよ、と思うのです。
・・・しつこいようだけど、お金以外(笑)
で、私は、私の世界で、私が選ぶ幸せを生きる。
傷つけたことには、ごめんね。と思う。
ツラかったんだろうな、とも思う。
だから、気が済むまで私を恨んでいいよ。
でも、ごめんだけど、私には、そこまでしかできない。
聖人君子でもなければ大金持ちでもないから、あなたの望むとおりにはできない。
私は、私の望む幸せを生きる。
それでいいのです。
★訴訟の相手方と自分に向き合ってみたシリーズ。すげーたくさんあるな!(笑)