皆さま、こんにちは! 愛し合っていますか?
ここ最近、東京は急に寒くなりましたが、お元気にお過ごしでしょうか。 私は、至って元気です。
ここ数週間忙しかったので疲れが出そうになりましたが、
睡眠時間を多くとったり、
マメにヨガや整体等の身体メンテナンスをしたり、
毎朝瞑想したり(「朝瞑想のひとこと」を呟いています。 良ければフォローしてねー! )、
映画を観たり読書したり音楽を聴いたり、
ご褒美ご飯を自分にあげたり、
知らない街を探検したり、
友だちと遊んだり猫と遊んだり・・・
と、まあ、長年の修行? の成果で学んだハードワークと疲弊による燃え尽き回避術を駆使して、元気でおります。
余談ですが、こういう自分のご機嫌が良くなることリストを作って、ラインナップをたくさん持っているといいですよ~!
と、前置きが長くなってしまいましたが、本題です。
「アナザーストーリー」って、皆さまも聞いたことがあるかもしれません。
弁護士業界でアナザーストーリーという場合、主に、刑事弁護の否認事件(被告人が、自分は犯人じゃない、とか、やったことは認めるが正当防衛だ、等の反論を主張する場合)において、検察官の描く有罪ストーリーとは異なる、弁護人が主張する別のストーリーという意味合いで用いられます。
ちなみに、民事事件の場合は、アナザーストーリー同士の戦いになることが多いというか訴訟にまで発展するのはそういうことがほとんどですし、立証責任の分配も刑事事件とは異なる(刑事事件の場合、検察官が全ての犯罪事実の立証責任を負うが、民事の場合、超ざっくり言うと五分五分のことが多い)ので、「アナザーストーリー」という言葉は、 私は聞いたことはありません。。。 ので、たぶん使わないんじゃないかな。 使ってたらごめんなさいっ。
で、気が付いたのですが、人間の心の世界でも、「アナザーストーリー」ってあり得ますよね。
心理学用語として用いられているかどうかは分かりませんが、物事は、自分の見方次第ですから。
私もこのブログでしょっちゅう申し上げていますが、「世界は自分が創っている」、すなわち、目の前の現実が客観的にみてどんなに酷い状況であったとしても、自分が世界をどのように解釈してどのような感情とともに生きていくかは、自分次第だ、ということです。
★記事も結構書いています。
違うものの見方すなわちアナザーストーリーが、刑事事件においては被告人にとっての真実であるように、そこまで峻厳な問題ではない場合でも、アナザーストーリーが、心が温まる・救われる・ほどけるような、その人にとっての真実でありますように、と願うこともしばしばです。
私から、クライアントさんに対して、アナザーストーリーを提示・提案することもあります。
例えば、刑事事件の被疑者被告人のクライアントさんで、自分の犯罪行為によって自分のことを酷く責めておられる方に対して、私は、こんな風に言うことがあります。
「確かに、今のあなたの現状は、酷いもの、最悪のものかもしれません。だけど、違う見方もできます。」
「刑事事件を起こして、逮捕勾留されて、裁判を受けるって、ものすごくレアな経験ですよね。言い方は悪いかもしれないけれど、普通の人は、まず経験しない。」
「ということは、善悪とか1人1人の個人を超えたもう少し高い視点から見れば、あなたには、それだけの持って生まれた何か、パワーやエネルギーがあって、それを自分の内の中で持て余してしまって、今回こういう事件に至ったんじゃないか、って私には思えるんです。」
「その膨大なエネルギーを、社会復帰後に、こういう闇の方向じゃなくてもっと違う形で光の方向に使うことができたら、あなたはきっと幸せになると思います。」
「・・・で、社会復帰後に、やりたいことってありますか?」
もちろん、犯罪行為をしたことを反省し、被害者がいる事案であれば被害者の方に謝罪しなければなりません。それは当然のことです。
ただ、ほとんどの場合、刑事事件のクライアントさんって、人から言われるまでもなく罪悪感でいっぱいなんですよね。表に出す態度が素直じゃない人もいますが。
もしかしたら犯罪をする前から罪悪感でいっぱいだったんじゃないかな、などと推測したくなるような方もいます。捕まってホッとした、というのも割とよく聞く話です。
これは余談ですが、交通事犯はもちろんですが、それまで犯罪傾向は全くなかったのに、つい魔が差した、カッとなった、酔った勢いで、経済的/精神的に追い込まれて、といった事案は意外と多く、私のこれまでの刑事弁護経験(約12年で50件弱、多くはないですが少なくもないかと)においても、半分とはいきませんがまあまあの割合でそういった「普通の人」のケースがありました。
刑事事件で私がクライアントさんに話すアナザーストーリーは、彼・彼女たちの罪悪感の物語を書き換えるための、自分の価値を信じて未来に希望を持ってもらう物語です。
罪悪感というのは、人を幸せにしない感情です。
ご想像頂ければお分かりのとおり、誰もが感じたくない感情ですし、過度に強い罪悪感を感じた場合、自己攻撃を止めるために無意識に他者攻撃をすることもあります(いわゆる逆ギレ。謝っても許してももらえないような気持ちになった時に発動します)。
そして、人は、罪悪感を感じるのが辛すぎると、心の奥深く潜在意識にその罪悪感を錘を付けて沈めてしまいます。
そこまで深く潜った罪悪感は、日常生活において明確に「ザ・罪悪感」として意識されることはないのですが、
何かいつも重い荷物を背負っている感覚、
自分より人を必ず優先しなければならない、自分以外の全員が幸せになってからでないと自分は幸せになってはいけないような感覚、
チャンスが来ても腰が引ける、自分は毒だ、人を傷つける存在だ、という感覚等々
が常にあって、人間の幸せを邪魔してきます。
けれども、じゃあそもそも人がなぜ罪悪感を持つに至ったのか?というところを見ていくと、底には愛があるんですよね。
犯罪を犯した人の場合であっても、被害者や迷惑をかけた家族や周囲の人に対する罪悪感は、その人たちの幸せを思う気持ちがあればこそ、こんな自分で申し訳ありません、という気持ちになるのです。
だったら最初からそんなことをするな、という話かもしれませんが、人間ってそんなに完璧じゃないですよね。偶々、違法行為はしていなかったとしても、倫理的に非難されるべき行為をしたことのない人なんて私も含めてこの世にいないのではと思います。それこそ、赤ちゃんのギャン泣きだって、捉えようによっては迷惑行為ですし、機嫌の悪い時に家族や部下にきつく当たることもあるでしょう。
そういう、不完全な私たちだから、「ああ、申し訳ないことをした。」と、罪悪感を抱く。
自分を責める。
それは、本当は、もっと周りを幸せにしたい自分がいるから。
そして、本当は、自分には周りを幸せにすることができる力があると知っているから。
そう、愛があるのです。
だから、贖罪を、罪悪感からだけではなく、被害者や周囲の人々に対する愛(多くは自分の目の曇りを晴らしてくれた感謝、支えてくれた感謝でしょう)をもって行って欲しいなあ。
そして、できることならば、アナザーストーリーの光を見て欲しいなあ。と思うのです。
もちろん、クライアントさんご本人の意思次第ですけれどね!
私の個人的体験のアナザーストーリーも書こうと思ったのですが、長くなったのでまた今度。
