私は、臆病で怖がりだ。
とてもそうは見えない、かもしれないけれど。
確かに、色々なことにチャレンジする方だとは思う。でも、逆説的だが、それは臆病だからかもしれない。臆病だからこそ、怖い・不安というネガティブな感情に居続けるのが嫌で、動いてしまうというか。
チャレンジする時は、自分が追い込まれていたり、にっちもさっちもいかなくてモヤモヤが止まらなくて「えいっ!飛び込んでしまえ!」と思っている、身体や心のどこかに力が入っている場合と、人に誘われて乗ってみた、何となくピンときた、というゆるい感じの場合がある。
そして、上手くいくのは、たいてい後者の場合だ。ゆるむって本当に大切だよね。
ゆるんでいる状態のメリットと、ゆるむにはどうするかという方法論を前回の記事で書いたのだけれど、そもそも、ゆるんでいる状態はどういうことかを書いていなかった。
一言で言えば、「自分の生きる力を信頼している」状態だと思う。
自信と言い換えても良いのだろう。ベースには、どんな自分であっても許容する自己肯定感がある。
自己肯定感は、困難や苦境を乗り越えることで鍛えられるけれど、乗り越えなくたって、困難や苦境を経験していなくたって、高めることができる。
例えば、私の場合は、両親の死や離婚といった人との別れ、弁護士になったこと、弁護士になってからの様々な業務や独立や人との出会い等が、乗り越えたゆえの自信に繋がる。臆面もなく言えば、すごいね、とよく言われるし、実際自分でもまあよくやってるんじゃない、とは思う。
でも、世の中には、もっと困難に遭っている人もいるし、もっとすごい人(才能や社会的成功や家庭生活において)はたくさんいる。
弁護士になってから割と長い間、私は、もっとすごくならなくちゃ、私は足りない、足りない、幸せじゃない、と思っていた。当然、自分へのダメ出しが増えて、自己肯定感はダダ下がりだった。自分で自分にダメ出しをしているので、人からの意見もダメ出しのように聞いてしまったりあえて意地悪な意見を拾ってしまったりして、自分苛めをしていた。自分の足りないところを、外側の何か、例えばパートナーや交友関係やお金を使うことやブランド品等何らかのステータスで埋めようとしていた。それが悪いというわけではないし、良い人・モノは良いので一流を見る目を養うことは大切だけれど、他者承認を求めるばかりでは根底の「私に私を認めてほしい、受け容れてほしい」という欲求が満たされないので、葛藤が生じ、いつまでも苦しい思いをした。
どうしてそれほどまでにもっとすごくならなきゃ、強くならなきゃ、と思っていたかというと、「弁護士で身を立てなければ、私は生きていけない。」という思い込みがあったからだ。
私には誰も頼る人がいないから生きていけない、と思っていたし、もちろんいったん手にした弁護士の地位へのプライドや執着もあった。クライアントさんや事務所のパートナー弁護士への責任感もあった。
しかし、すごい自分になりたいけどなれないみっともない私も受け容れ続けて、「辞めたら生きていけない」という思い込みを捨ててみると、途端に気楽になった。
私は、弁護士を辞めてもいいし、辞めなくてもいい、という選択肢を得た。
選択肢があることによって、人間は自由を感じる。まあ、結果として、今のところ、辞めていないし、辞める気もないのだが。人間というものは本当に天邪鬼で、不思議なことに、辞めてもいいよ、と自分に許可を出すと、いや、別に辞めたくないもんねー!となってしまう。
この自由を得たことによって、私は、仕事に対するものの見方や態度が変わった。
本来の素の自分でクライアントさんにも、裁判官や調停委員にも、何なら相手方にも接するようになった。以前の私は臆病で、いつもよそよそしい感じで仕事をしていたが、今の私は、「みんな同じ人間だ。」という共通の土俵がある安心感がある。
素の自分で調停室のフロアをメモし忘れて調停期日に書記官室へ飛び込んで「すみません~!」と笑いながら助けてもらったり、それをクライアントさんに話してネタにしたり、何だか楽しい感じ。
クライアントさんが恥ずかしそうに「うちの会社はこんな感じで契約書がなくて・・・」とご相談に来られても、「ということは、信頼関係がある、いい会社ってことですよね。」と、素晴らしいところを見て、価値を伝える。何だかお互い嬉しい感じ。
経験不足な分野が出てきたら、パートナー弁護士や友人、先輩後輩たちを頼ろう、と以前よりいっそう思えるようになった。
もちろん、弁護士の仕事は嬉しくないこともたくさんあるけれど(笑)、以前よりも、嬉しいなあ、お役に立てて良かったなあ、ありがたいなあ、と思えることが格段に増えた。
これが、「自分の生きる力を信頼している」状態なのかもしれない、と思う。
そうすると、人の生きる力も信頼することができる。私は、前述のとおり臆病で怖がりなので、クライアントさんのみならず、友人知人に対しても心配をしてしまい、近しい仲になると時には相手の問題を背負おうとしてしまう癖があった。
でも、その人の人生には、その人の課題があり、それは、究極的には、その人にしか解決することができないのだ。弁護士としてできること、カウンセラーとしてできることはあるけれど、そこには一定の限界がある。
猫には人間より短い寿命があり、私は猫たちが寿命を全うすることを信頼して共に生きるように。
ただ、自分や人の生きる力を信頼する。
そうすると、生命のダイナミズムなのか、みんなそれぞれが落ち着くべきところに落ち着き、生き生きとする。
★今日はグレートコンジャンクションですよ