この記事の中で、これまで、フィーバー、またの名を無敵タイム(スーパーマリオのアレ)が来た時に、自分の中に罪悪感があり、豊かさを受け取り切れなかった、という話をさらりとしました。
これって、恵まれていることの罪悪感っていうやつです。ちょうど根本裕幸先生がその仕組みと対処法を分かりやすく解説されているので、ご興味のある方はぜひそちらもご覧くださいませ。
罪悪感がある、ということは、そこに愛があるからなんですよね。
ただ、愛の表現方法として見ると、罪悪感は、加害者と被害者を作り出し、自分も相手も苦しくしてしまう、ちょっぴり?いやだいぶ困ったちゃんです。
そして、今日ふと、ブロッコリーの茎の固い部分を棄てた時に(笑)、罪悪感が沸くのは、人に限ったことではないな、と思いました。
モノや自分の居場所などに対しても、罪悪感って沸くんですよね。そして、罪悪感を抱かない方が、楽な心地でいられる。
例えば、衣類や本を断捨離する時。
選別段階では、「今の自分に相応しいかどうか、心がときめくか」を自分に問うて、残すモノと捨てる(人に譲る)モノを決める。
そして、捨てる(人に譲る)段階では、これまで自分の側にいてくれた、そのモノたちに感謝をする。
確かに、「ゴミだから。」とポイポイと捨てる方が、時間的には速いかもしれません。でも、一度はご縁があって自分の手元にやってきたモノたちを、ゴミ扱いして捨てる行為は、罪悪感を掻き立てると思いませんか?もちろん、一つ一つは本当に小さい罪悪感で、よーく意識して見ないと掴めない感情かもしれません。もしかしたら、書籍で想像した方が、掴みやすいかもしれません。
小さい罪悪感も、積もり積もれば自分の潜在意識に溜まっていき、説明の難しい「何だかモヤモヤした感じ」として残っていきます。
また、例えば、居場所を去る時。学校や職場を卒業する時。
「ああ、せいせいした!」と去るよりも、「いろいろあったけど、学びになった。楽しかった。ありがとうございました。」と去る方が、罪悪感が少ないだろう、というのは想像できると思うのです。
もちろん、その場所に、嫌な先生、嫌いな同級生、パワハラ上司、働かない同僚等々、嫌な人がいて、嫌な思いが付着しているような場合、そこを離れる際に解放感から「せいせいした!」と思うのは当然でしょう。すぐには感謝できなくたって当たり前。人間だもの(みつを)。
ただ、「せいせいした!」「ざまあみろ!」といった、他人を非難し責める感情は、反射的に罪悪感を作り出すものです。心の深いところで。余談ですが、私は、この仕組みを知り納得した時、人間って本当に本質的に「善」なんだな、と、より一層性善説を支持するようになりました。
他方で、そこに非難ではなく感謝の念があると、罪悪感にはなりにくい。感謝を贈ることによって、たとえ加害をした相手であっても許すということに繋がるからです。
しつこいようですが、もちろん、無理に感謝しなくても良いのです。我々は聖人君子になる必要はありませんから。
ただ、長期的に見た場合、感謝を贈り、相手を許すことが、自分をも許すことに繋がるのは、間違いありません。そして、自分を許すことができると、とても心が軽く楽になります。
今、生きづらい方、どうしても許せない人がいる方、何だかイライラモヤモヤする方は、このことを頭の片隅に置いていただけたら、ネガティブな気持ちから解放されるきっかけになるかもしれません。そうなれば、とても嬉しく思います。
さてさて。
まとめますと、モノも居場所も人も、そこから離れる時、私たちは、離れると決めたのに天邪鬼的な何かを発動して執着をしてしまいそうになり、逆に対象を邪険に扱ってしまうようです(上記の「せいせいした!」的な)。
なので、まずは、感謝をしてみると、執着の鎖は解きやすいように思います。
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