偶々ご縁があり、カトリックのシスターとお話する機会がありました。
私は、ほぼ無宗教(両親のお墓は一応浄土真宗)ですが、これまで50年近く、まがりなりにも自分の生命を何かのために使ってきて、だんだんと宗教や哲学、アート等、人間を人間たらしめるものに関心を持つようになりました。
何のために、自分の生命を使うのか。
それを早くから知っている人もいるし、晩年になってから知る人もいる。
私がお会いしたシスターは、80歳に近い方でしたが、15歳で、修道院に入ることを決めたそうです。
「決めた」というよりも、「家族を持たず、神の使いとして生き、教えを実践することで広めていくのが自分だ」と分かったのだそうです。
家族を持たず、教育者として働き、神に仕え、国内だけでなく海外にも赴任する。
私から見ると、15歳の少女が選択するには、とても勇気のいる道に思えますが、おそらく、彼女には、自然なことだったのでしょう。
その芯の通った生き方を、羨ましく思いました。
ただ、同時に、
私は私。
とも、思いました。
私も、私なりの芯を持っている。
それは、人の役に立ちたいとか社会に貢献したいとか、豊かになりたいとか、
そういうこともあるけれど。
今は、そういう大きな理念よりも。
私にご縁のある皆様(相手方も含む)に、
私なりの芯を通すこと。
できること、できないことをハッキリと切り分け、
犠牲もしないが、過剰に自己防衛もしないこと。
様々な困難にも愛をもって接すること。
何のために私の生命を使うのか、まだよく分かりませんが、今は、そういう日々の自分の在り方を磨く時期のように思っています。