皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
小川正美です。
事故受容って・・・変換が職業病や(笑)
私は、ここのところ仕事がやや忙しくて、限界までは来ていないものの(限界に来たらブログが更新できない)、ほっと一息つきたいなあ、という感じでした。
なので、先日、一息つくために、いつもより少し早目に事務所に来て、ミッドタウンのFUJIFILMスクエアでやっている写真展『ユージン・スミスが見たもの』を観てきました。
有名な『楽園への歩み』のほか、戦時中の報道写真、ライフ誌のフォトエッセイの写真、水俣の写真等々、20世紀の人々の死に様も含めた生き様が、絵画にも似た、しかし写真特有のリアルさで迫ってきます。
この時は、哀切とか怒りとか生きる意欲とか慈悲とか色んな感情を自分のものとして感じる、というより、人間全体もっといえば集合無意識のものとして俯瞰して見るような感覚でした。
でも、何だかとても心が充たされたひと時でした。
僅か小一時間だけれど、コンフォートゾーンを抜けて寄り道してリフレッシュするってやっぱりいいなあ、と思ったのです。
最近、というか先日のセミナーを受けてから気が付いたのですが、
私、弁護士である自分のことが、前より好きになったな。
と思うのです。
正直、以前は、弁護士である自分のことがあまり好きではありませんでした。
相手方を傷つけるし、相手方や裁判所から自分も傷つけられる(ことがある)し、クライアントさんを傷つけたり傷つけられたりすることもあるし、同業者への自分の競争心も人からの競争心もイヤだったし、業界にはすごい人がいて自分がちっぽけに思えることもあるし、一般社会からは「先生」として品行方正や切れ者感や優しさや余裕や親切を期待されているような気がするけど応えられないし、弁護士になる前からの友人達と距離が空いたような気もして寂しいし・・・等々。
このブログでも、かなりグチグチと「私は弁護士に向いていない」と書いてきたと思います。
もちろん、弁護士であるゆえの良いこともたくさんあります。
独立してしまえば執務時間や場所が基本的に自由、どんな仕事をするかも基本的に自由、感謝してもらえることが多い、弁護士になったからこそ出会えた人々もたくさんいる、女性弁護士は珍しいのですぐ覚えてもらえる、基本的に丁寧に扱ってもらえる、私の性格とのギャップを面白がってくれる人も多い・・・等々。
これまでは、こうしたメリットを見つめるようにして、加えて「私、弁護士以外の仕事じゃこれほどは稼げないし。」という生存本能に訴えかける脅迫を自分自身に対して行って、自分を納得させ、鼓舞してきたのです。
でも、今思っているのは、そういうメリット・デメリットの比較衡量の話ではなく、生存の危機へのおそれの話でもなく。
私は、自分の深いところで、「弁護士である」ことへの覚悟が決まっていなかったんだな。という感じです。12年も弁護士やってきたのに!
心の奥底のどこかで、大きさとしてはほんの少しですが質量としては確かに存在する重たい、「私は、弁護士になんてなりたくなかったんだけど、だからいつでも辞めたいんだけど、そうするしか仕方なかったの。」という謎の言い訳めいた気持ちがあったのです。
自分でこの仕事を選択し、この人生を選んできたたという責任を回避したい幼さとでもいいましょうか。原子核のような依存心と言ってもいいのかもしれません。
それは、極端に言うならば、
離婚したから仕方なく働かなくてはいけなくなった、友達に誘われたから仕方なくロースクールに行かなくてはならなかった、母が亡くなったから仕方なく自分で働かなくてはならなかった、パートナーが私を支えてくれないから仕方なく働かなくてはならなかった、
こんなにツラくて大変な仕事なのに!どうして私がこんな仕事をしなきゃならないのよ、
といった気持ち。
もちろん、日ごろこう思っているわけではないし、元夫や友人や母や当時のパートナーたちに責任を取ってくれという話でもなくて、自分の気持ちが落ちていて逃げたくなった時に、泣き叫ぶ私の心が本音で言いたかったことはこういうことだった、という話です。
カウンセラーの仕事を始めたのも、弁護士から逃げたかったから、という理由だけではないけれども、それがゼロではありませんでした。
「弁護士」以外の何者かになれば、誰かから守って貰ってもいいような気がしていた。
逆に言えば、「弁護士」である以上は、誰からも守って貰えない、むしろ自分が人を守らなければならない、となぜか固く信じていました。
とはいえ、実際のところ、弁護士である私は、これまでも、今も、色々な人達から様々な局面で守って貰っています。クライアント様達、パートナー弁護士、友人達、親族等々。
多くの弁護士がそうだと思いますが、私も、弁護士になったことによって、人生のステージが変わりました。
私の場合、ステージが変わったことによって享受したメリットよりも、デメリットが多いように感じていました。
それは、上に述べたように、「べき」「ねば」が増えたために、その観念(理想)と違う自分に対してダメ出しをしまくる、自己否定が増えて、生きづらくなったからです。
弁護士であることだけが原因ではないのですが、もうすぐ終わる私の40代は、自己否定祭のシーズンだったなと感じています。
思えば、過去に起きたことを何でも自己否定の理由にしていました。例えば、両親への依存心、両親の死への罪悪感、離婚や昔の恋愛での無価値感と罪悪感と執着、弟や子ども時代の友人関係での被害者意識と罪悪感、等々。
きっと、私は、自己否定がやりたかったんですよね。
否定して否定して否定した挙句、「それでも、この足りないところだらけの私を私が愛するしかない。」と思えるまで。
自分が自分を許すことができるまで。
人のことを許せると、自分のことも許せる。
自分を許すことができると、人のことも許すことができる。#朝瞑想のひとこと#昨日に引き続き投影#ハナちゃんを許すコテちゃん#コテハナ#乃木坂#弁護士#心理カウンセラー pic.twitter.com/2ONGDO2SmS
— 小川 正美/たまに戦う弁護士・心理カウンセラー (@MasamiOgawa_LLL) November 18, 2021
なぜ、そういう風に思うようになったかと言いますと。
今の自分のステージというか居場所を受け容れて、
12年間の弁護士生活を振り返って自分の成長ぶりを受け容れて、
これまでのクライアントさん達にベストを尽くしたことも受け容れて、
プライベートでの数々の自分の所業(笑)も相手の所業も全部仕方なかったんだと受け容れたら、
クライアントさんや友人たちやパートナーたちが私に対してこれまで向けて下さった感謝の気持ちに心から感謝できて(愛情を受け取ることができて)、
なんとなく、「あ、私が弁護士であることを選んでいるし、今のままの弁護士らしくない私もいいよね。」と思えるようになったのでした。
今日はね、
今度学生時代の同級生男子たちと飲むのですが、その中に当時の元カレがいまして、会うのはめちゃめちゃ久しぶりなんですけれども。
ものすごーく私が執着して別れたこと、私が別の人(元夫)と結婚が決まった時に鼻の穴を膨らませて結婚するわ!と報告したこと、なんかをつらつらと思い出して、彼はあの時どう思っていたのやら・・・などと思っていたのですが。
「なんか、いい思い出だなあ。」と思ったのです。
そして、実際に、付き合い始めのクリスマスにバラをプレゼントしてくれたことやあれやこれやと楽しかった嬉しかった思い出を思い出したのです。
いやもう、何十年前の話だよ、って感じなんですけれど(30年よ!!)。
ああ、いい思い出だ。と思ったら、
これまでの人生が走馬灯のように思い起こされて、ああ、全部いい思い出だ、と感じたのでした。
(まだまだ生きます。)
★そんな私の個人セッション
個人セッションを申込む
★『日本の中心で愛を感じるセッション』近日リリース。coming soon