皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
たまに戦う弁護士&ガイディング・コンサルタントの小川正美です。
最近の私は気づきが加速しておりまして、今日も帰宅途中の電車内で、ふと、
「はっ!うちのおかんはもしかしたらかわいそうじゃなかったかも・・・。いやむしろ幸せだったのかも・・・私という娘(+弟という息子)がいて。」
と思ったのです。
実際、母自身、生前、私と弟を溺愛していたので子ども達がいて幸せだとよく言っていたのですが。
私が勝手に母を「不幸なお母さん」にしてしまっていたのですね。早逝したことやその罪悪感を背負いたい私の気持ちなど色んな理由で。
で、その気づきを得てちょっとうるうるしていたところ。
友人達のグループメッセンジャーに、やまだようこちゃんから、
「我が家にトランポリンが来たよ!」というメッセージとともに、
ピョンピョン飛び跳ねる楽しそうな陽ちゃんの動画が送られてきました。。。。笑笑
「もうおかんのことは笑い飛ばせ」という神様からのメッセージとしか思えん(笑)
まあ、実際、おかんも愉快なキャラだったし。
最近、どう考えても昔なら深刻になってた場面で深刻になれないことが続いております。
これって、たぶん、自分の価値を受け取り始めたからなんですよね。
分かりにくい愛情表現を受け取ってみたり、
体育会ノリで「価値を伝えてくれた人に失礼なんだから受け取るぜ!」と受け取ってみたり、
その過程では、実は受け取ることが怖くて怖くて、咆哮や慟哭と言っていいほどの身体を使った叫びのような感情の塊を出したりもしました。(お風呂掃除の際とかに1人でやると猫もびっくりしないので良かった)
で、今日は、自分の価値を受け取って良かったこと3つをお伝えしたいと思います。
1.無価値感が癒され罪悪感も減った
自分の価値を受け取ると、当然のことながら無価値感が癒されて減ります。
そうすると、無価値感の兄弟のような存在である罪悪感も減ります(無価値感は依存的に見た自己否定、罪悪感は自立的に見た自己否定)。
私たちは対人関係やその状況によって自分の自立/依存のポジションを変えますから(例えば、上司に対しては依存的だけど家族には自立的だったり)、たいていの大人は、無価値感も罪悪感も抱えているものです。
でね。
無価値感が減って罪悪感が減ったわけですよ。
そうしたら、過去に私が近しい人々(男女問わず)に対して踏みまくった地雷の数々に対しての罪悪感が減ったんです。
しかも、罪悪感が減ったからと言って、「私悪くないもーん」ってなるわけじゃないんですよ。こうした自己正当化の態度はむしろ罪悪感が強すぎて直接罪悪感を感じられない時に出てくるものです。
何だか素直に、「ああ、ごめんね。」と心から思えるのです。
かと言って、「私を!私を罰して下さい!!」という気持ちは毛頭なく。
地雷を踏んだ件については、
私が鈍感で無神経だったな。
私が思っている以上に私の影響力があの人達にあったんだな。
いやはやホント申し訳ない。
でも、みんなの強さを信頼していたのも本当なんだよな。
でも傷つけちゃったよね、ごめんね。
と思うのです。何なら皆さんに直接会って謝罪したいくらい。許されるならね。
これ、以前の私は、「えっ?そこで傷つくの??」と思った上で、罪悪感が刺激されて、相手に対して「そんなことで傷つくなんておかしい!」と逆ギレておりました。あはは。ごめんなさい。
今は、私とは感じ方が違うんだな。でも傷つけたなら謝りたいな。でも、謝って許してもらえないとか、今も許したくないとかならまあしょうがないか。全てはタイミング。私は、以後気を付けよう。
こんな感じです。
2.おかんは不幸じゃなかったかも。幸せだったかも。私が子どもで。
冒頭でも少し触れましたが。
無価値感が減るでしょ。つまり、自分のことを良き存在と思えるようになるわけですよ。
そうすると、
私って愛されてたやん(知ってたけど)→ おかん、私が娘で良かったんじゃないの? → ていうか昔そんな風によく言ってたっけ → あれ?もしかして、おかんて幸せな人生だった?私が勝手に不幸な人にしてた?(罪悪感で自分を責めたくて)
→ (無価値感が減って罪悪感も減っているので)なーんだ、私ったら勝手におかんを不幸な人にしちゃってた。ごめんごめん。ついでに私のことも不幸にしてた。ごめんごめん。
という感じなのです。
あんなに長年向き合ってたおかん問題が今ここに簡単に解決・・・あの年月はいったい・・・(いや、絶対向き合ったから今の心境になってるんだけど)。
3.なんか恥ずかしかったけど愛されてたと分かった
1.とも関係するのですが、私がこれまで傷つけてきた近しい人々への罪悪感が減った結果、
その人達から愛されていた(広義の愛)んだなあと素直に受け取ることができるのです。
試しに1人イメージワークをやってみたのです。
上記の傷つけてしまった人々や、好意を持ってくれたけど好きになれなかった人々、逆に私が好意を持ったけど好きになって貰えなかった人々、そんな私の中の「思い出すと心がささくれ立つ人々リスト」に載っている皆さまに、私のイメージの中にご登場いただいて、
一列に並んでいただき、
手には深紅のバラを一輪ずつ持ってもらって、
私のところまで来てもらい、バラを手渡してもらいました。
私は、「ありがとう」「ありがとう」と心を込めて御礼を言って、バラを受け取る。
時に、相手によっては「ごめんね」と、はにかみながら言う。相手もにっこり笑う。
やがて、私は、大きなバラの花束を抱える。
これね。
ちょっと前までだったら、申し訳なさのあまり(罪悪感)、或いは、私なんかがという恥ずかしさのあまり(無価値感)、想像するとすらできなかったと思う。
でも、今日、ちょっと想像してみたら、嬉しいんですよ。本当に。
もちろん、お花も嬉しいけど、
何より、「ごめんね」「ありがとう」と言えることが。
ああ、もう、誰のことも責めなくていいし、私のことも責めなくていいんだ。
それだけで、本当に嬉しいのです。
きっと、また、怒ったり悲しかったり悔しかったり色々な出来事はあるんだろうけれど。
私の心の中の、この場所に還って来れるから、大丈夫。