皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
すっかり空が高く、夜は長く(来週はもう秋分ですね)、秋の虫の声が響いていますね。今年は、秋の訪れが殊の外早いように感じます。
ところで、先日の根本先生のこの記事が刺さりました。怖れが強い人の最後の依存心。怖れが強い人は、子ども時代守って貰えてきたので、外側は自立していても、どこかで最後は誰かに何とかして欲しい、という気持ちが残っている。というお話。
確かちょうどこの記事を書いたばかりのタイミングで、自分がこれまでの人生についてまだ「私、かわいそう」って被害者のように思っていたんだなあ、と感じたところだったので、めちゃめちゃタイムリー。
とはいえ、被害者だと思っていたからといって自分を責めないようにね!(『電気を大切にね!』風に)
私も、色んな意味でおそれが強いのです。そうは見えないとお思いの方もおられるかもしれませんが。
確かに、仕事柄、警察や不動産屋さんや弁護士や裁判官や検察官や仕事モードの男性を、たぶん一般の女性よりも怖れていないとは思いますし、あと未来についても考えても仕方ないとある意味諦めて(笑)今に集中しているのでさほど不安はありません。
ですが、
例えば、人を傷つけるおそれ、自分のエネルギーを奪われるおそれ、嫉妬されるおそれ、前に出るおそれ、親密感のおそれ、経済的不安(自分1人なら何とかなると思うけど人を扶養する勇気はない)、居場所を喪失するおそれ、自分の冷酷さへのおそれ、そして幸せになるおそれ等々、ちょっと書き出しただけでもこんなにたんまりとおそれがあるのですよう。ああ怖い(笑)
それゆえ、もう一歩が踏み出せず、本当の自分を生きていないようなくすぶっている感、図々しさを承知で言えば、「私、こんなもんじゃないわ」という感覚が、今年の初めくらいには結構ありました。
マミコちゃんとのイベント、神社行きまくり、田んぼ等、様々なチャレンジや事務所移転の環境変化によって、だいぶ軽くなっては来ておりますが、まだ完全解放とはいってないかなあ。。。
この怖さって、普段は抑圧しているので顕在意識には上がって来ず、気が付かないのですが、抑圧された感情のエネルギーが溜まっていくと、近しい間柄の人にはついついニーズ(依存心、甘え)として出てしまいます。まさに、「誰か何とかして!」「支えて!」という感じ。
私など、自分で言うのもなんですがめちゃめちゃ踏ん張りがきくので、人がこうして欲しいんだな、ということを察して察したことも悟らせず行動したり、その場が平和で楽しくなるのに最適なキャラを演じるのは得意中の得意です。もちろん、職務上、ぐっとこらえなければならない、感情を飲み込まなければならない場面も結構あります。似たタイプの女子はかなりいますよね?ねー?
最近でこそ、自分軸でかなり振舞えるようになりましたが、これまでの40数年間の抑圧ストックがたんまりとあり、抑圧された感情エネルギーはそれこそ地球温暖化を食い止めるために発電所作れるんじゃないか?ってくらいなわけです。
踏ん張りがきくということは、「もう無理」「やだ」「怖い」「助けて」といった感情の抑圧の度合いもかなり大きく、そのぶん、爆発した時には、叫びのような依存心が出てきてしまうのでした。
この「こんなに頑張ってるんだから分かってよ!助けてよ!!」は、ぶつけられた相手からすればなんの前触れもなく、しかも「分かって、助けて」ならまだ可愛らしいですが形を変えていちゃもんのような形で爆発するので、まあ、相手は引きますよね。
正直、私がこれまで結婚や恋愛が上手くいかなかった原因の8割はこれだな、と思っています。あと、恋愛だけでなく、同性の友人ともこれで上手くいかなくなったことがあります。チーン。
これって、自分の依存心を自分が嫌い過ぎて自己否定し過ぎているがゆえに、表の顔で頑張り過ぎて、自分の本音を抑圧して人に合わせて、そのこと自体にも気が付いていない(その場では我慢や犠牲だと思っていない、或いは、分かっていても役割を演じるしか選択肢がないと思っている)、そして抑圧された『かわいそうな私』が「分かってよー!!」と登場する、ということなのです。
なので、自己否定を止める、すなわち自己肯定することが最初の一歩になります。
まずは、依存心を嫌わない。
「かわいそうな私」と思っている、自己憐憫ちゃんを嫌わない。
「うん、かわいそうだったね」「よく頑張ったね」と、声をかけてあげる。
これまで爆発してきたことについても、それしかできなかったんだもん、しょうがないよね、と認めてあげる。
ここ、今日は簡単に書きましたが、本当に、本当に、大切。だって、「私、かわいそう!」って私自身が叫ぶほど、大変だったし、頑張ってきたんだから。
★この記事などご参考になるかもしれません。
次に、頑張り過ぎを防止する。
人からどう思われるかよりも自分がどうしたいか、自分軸で行動する。
日頃から、自分の心と身体の状態を繊細に観察する。メンテナンスや回復、気分が上がる簡単な方法をメニューとして複数持っておく。
それでも自分が自分に「大丈夫。」と嘘をついたり、優しさから人を優先してしまうことがある。そこにも早めに気が付いてあげる。
そして、そもそも、なぜそんなに頑張ってしまうようになったのか。
例えば、パターン化しているならば、原因となった出来事に向き合い、傷つけるおそれや見捨てられるおそれ等の感情を味わい、認め、解放する。
向き合っても向き合っても出てくることもあるけれど、確実に螺旋階段を昇るように成長している。半年前、1年前の自分と比べて、自分を褒め称えながら向きあっていく。
例えば、自分の立場的に頑張らざるを得ない(先生、社長、管理職、親等)のであれば、頑張らなくていい、1人の人間に戻ることができる安全な人間関係や場所(趣味仲間、昔からの定番だとスナック、自然の中、車の中、映画館や美術館やスタジアム等)をできれば複数持っておく。
1人になりたい時のために場所を、孤独を感じたくなく繋がりを感じたい時のために人間関係を。
例えば、「今が頑張りどき」ならば、1人で頑張らない。仕事仲間、家族、友人、カウンセラーやコーチといった自分の応援団を作る。
「応援して!」と頼むのが一番いいけれど、恥ずかしかったり関係性的に無理だったり亡くなっている方なら、この人は応援してくれている、と信じる。その中に、わだかまりを残して疎遠になった人がいるならば、心の中で感謝を贈る。
例えば、頑張るためのエンジンが怖れや不安や罪悪感であって役割を演じていて義務感でいっぱいになっている、著しく燃費の悪い状態としたら、そのエンジンを愛や楽しさや喜びに乗せ換える。
そのために、ピットインして、一時休んでもいい。エンジンを乗せ換えるためには、自分と向き合うことが必要だから。
最後に、「私、かわいそう!」と自己憐憫することのメリットがあったことを認める。
人から優しくされる、時にコントロールできる、自分が幸せにならないことで誰か(親きょうだいや元配偶者や元恋人等)に「あなたのせいでまだ私かわいそうなのよ」と復讐できる、だから被害者の立場から抜け出すことができない。
こう考えていくと、反省会みたいになってしまいがちですが、そこを、被害者でもなく、加害者でもない、無害者を目指す。自分には本当はもっと大きな力があること、自分という存在に価値があることを認めながら。
そんな感じでしょうか。
言うは易し行うは難し・・・だなあ、あいたたたた、と思いつつ。