皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
たまに戦う弁護士&心理カウンセラーの小川正美です。
例の訴訟の件の記事が続きましたが、今日は、久々に違うネタをお送りしますね。
※例の訴訟とは、7年前の訴訟の相手方ご本人から昨年12月に私が慰謝料請求訴訟を提起された件で、私は、昨年12月来、この相手方原告(男性)について、「私は、なぜ裁判を起こされるというこの状況を必要としたのか?」という観点から向き合っているのです。
今、私はとあるビジネスセミナーに通っているのですが、そちらの宿題の締め切りが昨日の夜23:59だったのですが、私はすっかり今日の夜だと勘違いしており、昨夜は、美味しいご版を食べて&飲んだくれていて、帰宅途中にリマインドメールが届いて青くなりました(笑)
いやまあ、マンボウのおかげで?20時には会食は終了していたので、それから帰ってほろ酔い?で宿題をやったんですけれども。
その宿題の1つが、「あなたが過去、最も充実感を味わった出来事を、一つ思い出して、その時のことを自伝風に、出来る限り詳しく書いてください。」というもの。
弁護士になってからの仕事の件にしようかどうか悩んだ挙句、司法試験に合格したことを、ロースクール入学前の頃の出来事から書きました。長文なのですが、後掲しますね。
なんと約6000字の超大作になってしまった(笑)
このブログでも概略触れてきたことばかりですが、ここまで詳細にストーリー仕立てで書いたことはないので、読み物としてお読み頂けたら嬉しく思います。
書いている途中、もう15年以上前の出来事をわりと詳細に覚えている自分にも驚いたし、書いているうちにあの頃の感情や自分の頑張りがよみがえってきました。
そして、こんなにも頑張っていた自分を、私は、「私なんて弁護士として大したことない」「司法試験に合格しただけでいい気になりたくない」などと自ら痛めつけていました。
その理由は、
周りから図に乗っていると攻撃されないようにしたこと(過去にバイトや会社で学歴コンプレックスを持っている人たちから釘を刺されたことがあった)、
それまでの「何者でもなかった自分」「離婚して両親も亡くしてかわいそうな自分」だから友達でいてくれた人たちに嫌われないようにしたこと(本来そのような人は友達ではないのですが母を失った私には孤独が怖すぎた)、
元カレが合格しなかった罪悪感があったから、
謙虚であることが正しいという観念(思い込み)があったから、
もう12年も弁護士をやってきて今更合格のことを自画自賛するなんて恥ずかしかったから、
また、自分を一段下に置くことで人間関係が上手くいくという成功体験が忘れられなかったからでした。
もちろん、弁護士であるというだけで、人間として優れているとか、上だとかいうことではありません。
ただ、私は、せっかくの自分の頑張って来た成果を、一部分しか受け取らず(合格したことはとても嬉しかったので一部は受け取っていた)、それどころか自分を責めていたよなあ。本当に、自分に申し訳ない。ありがとう。と思ったのです。
自分のことを認めてきたつもりだったけれど、大したことないっていじめる自分もまだいて、それを外側に映し出していた。
本当によくやってるじゃーん
ごめんね。ありがとう。愛してるよ💖#朝瞑想のひとこと#二言目#今日は202222ニャーオニャーニャーニャーニャー#コテハナ pic.twitter.com/lcuqZhcDR4
— 小川 正美/たまに戦う弁護士・心理カウンセラー (@MasamiOgawa_LLL) February 2, 2022
以下、宿題文の前半です。
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私が最も充実感を味わったのは、2008年の司法試験の合格発表の時でした。
弁護士になってから携わった案件でいくつか思い出深い逆転勝訴や勝訴的和解はあります。が、我ながら自己中心的だなあとは思いますが、やはり、それまでの長い不安や緊張からの喜びという点で、司法試験の合格ほどのスケールのものはありません。
2001年、私は、当時結婚していた元夫と上手くいかなくなり、実家に戻って別居を始めました。当時、私は29歳で無職、新卒時に総合職として入社していた生命保険会社は結婚と同時に退職していました。離婚も視野に入ってきていたため、再就職をしようと思いましたが、正社員としてのキャリアは断絶しており、総合職として会社員に復帰することは無理だと考えました。
そこで、私は、資格取得を目指しました。大学が法学部だったため、司法試験よりも合格しやすそうに思えた司法書士試験を目指すことにしました。会社員だった母も、定年がない仕事はいい、と賛成してくれました。
資格試験予備校に通い始め、2002年の受験は、離婚協議を重ね精神的に不調だったこともあって見送りました。
2003年1月、元夫と調停離婚が成立し、精神的に身軽になった私は、受験勉強にまい進しました。そして、同年6月、司法書士試験を受験。司法書士試験は、短答式(選択式)がほとんどで、記述式は全体のうちわずかな試験であるため、即日予備校が回答速報と予想合格点を発表します。
その日の答え合わせで、私は、マークミス等がなければ余裕で合格している点数でした。浮かれた私は、すっかり合格した気になって、友人達と海外旅行に行くなど遊び歩いていました。
ところが、数か月後の合格発表で、私は不合格となりました。短答式の点数は合格点に十分でしたが、記述式の点数が不足していたのです。
予想外の結果に落ち込み、来年も受験するかどうか、気力も湧かないまま、私は、無職期間が2年以上にも及んだことに焦りや経済的な事情もあって、派遣社員・契約社員として都内の法律事務所で働き始めました。
当初、働きながら試験勉強を再開しようと目論んだものの、横浜の実家から勤務先まではドアツードアで片道1時間30分はかかったため、もともと体力のない私は疲れて勉強どころではありませんでした。
焦りを感じつつ、2004年を迎えたころ、大学時代からの親友が、私に言ってきたのです。
「ロースクールを一緒に受験しない?」と。
当時、鳴り物入りで始まったロースクール制度。2003年の受験(つまり2004年入学)が一期で、私たちが受験した2004年は二期でした。競争率は、大学院にもよって異なりましたが、平均的には10倍程度。
旧司法試験の合格率は3%程度と低く、10年以上受験する人も珍しくない状況でしたが、ロースクールは80%は合格できるとの触れ込みでした。(実際には、そこまでの合格率には及ばず、私が合格した2008年は20%程度でしたが)
高い合格率を誇るとはいえ、3年もの間大学院に通い、それからの受験、そして首尾よく合格しても司法修習が1年以上ある。弁護士になることができるのは、最短でも2009年。2004年当時、32歳だった私からすると、気が遠くなりそうな計画でした。
それに、1年と少し司法書士試験の勉強をしたことで、多少のアドバンテージはあるものの、30代になって20代の若者たちと机を並べて勉強する体力的精神的しんどさも知っていました。
また、そもそも、司法書士試験に合格しない人間が、それよりも科目数が圧倒的に多く試験内容も論文中心で難しい司法試験を受けようとすること自体、ナンセンスな気もしました。
それでも、私は、なぜか、友人の誘いに「YES」と言ったのです。
今でも理由はよく分からず、一番の理由は「直感」なのですが、思えば、大学時代の同級生で既に司法試験合格者がいたこと、司法書士試験に不合格だったことについてリベンジしたい気持ちがあったこと、元夫を見返したい気持ちがあったこと、ロースクールに行けば「大学院生」という身分ができるので無職より感情的につらくないこと、またその身分も体裁が良いこと、もともと私が法学部に行った際に母が弁護士を目指すことを推奨していたこと(母は自らの体験から会社員より有資格者として個人事業主になることを薦めていた)、友人は私と似たような・しかし私より立派なキャリア街道を歩んでいて親近感や憧れがあったこと(会社員から結婚・離婚を経て海外のロースクールに留学し、帰国して外資系の法律事務所でパラリーガルとして勤務していた)、など、たくさんの理由が思いつきます。
そして、ロースクール受験の日々が始まりました。
5月か6月だったと思うのですが、各大学院共通の適性試験というものがあり、その受験のために、働きながら、問題集を解いたりしました。適性試験は、知識ではなく、認知能力や分析能力などを問う知能テストの難しい版のような試験でしたので、それ用の対策が必要でした。
適正試験が終わり、そのスコアをもって、各大学院に願書を提出しました。大学院によってはTOEICのスコアが必要だったり、推薦状が必要だったり、長文の志望動機を書かねばならなかったり、書類審査だけでも一苦労でした。
書類の試験に通ると、一次試験や二次試験(面接等)を受験します。
私は、英語に全く自信がなくTOEICを受験していなかったため、受験できる大学院は限られていましたが、都内や近郊の大学院を受験し、最終的に、横浜国立大学の法科大学院に進学することにしました。実家から近いこと、国立なので学費が安いこと、少人数のロースクールなので授業が充実しているだろうと目論んだことが進学の決め手でした。
母は、私がロースクールに進学することをとても喜んでくれました。2001年の3月以来、結局4年もプラプラとしていた(と私は思っていた)私が本腰を入れて資格取得のため大学院に行くことが決まったことで、きっと安心したのだと思います。
ところが、入学直前の2005年の2月、母が突然胸の痛みを訴え、救急車で搬送されました。病院に到着したとたん痛みは治まり、3日ほどの入院中に循環器内科で検査をした結果、心臓に異常はなく、急性膵炎ではないかとの診断でした。
当時、母は、59歳、前年の2004年に父が亡くなって以来20年ほど勤めていた会社を退職したところでした。母は契約社員であったため、契約更新をしないという形での退職であり、その際に会社側と悶着がありました。私も司法書士の勉強をしていたため、労働法の知識はないけれど(受験科目ではなかったから)、会社との交渉に立ち会ったことがありました。その際、私が弁護士ではない、ということで会社側から軽んじられた(と私は感じた)、それゆえに私は母を助けられなかった、という忸怩たる思いもありました。
このように冬に母の救急搬送という事件はありましたが、2005年4月、私は、ロースクールに入学しました。
噂では聞いていましたが、ロースクールの勉強というのはなかなかに苛酷で、一年次の前期は民法が中心だったため司法書士受験時代の知識で何とかあまり勉強もせず乗り切ることができましたが、憲法や刑法、会社法といった他の実体法が出てきて、2年次には訴訟法や行政法、選択科目(労働法、知財、破産法等)もあり、かつ、演習科目(民事系と刑事系につき、弁護士や検察官の実務家教員と学者教員が組んで、実際の事件を翻案した事件記録(証拠など)を基に、各自が論文を書く)も始まり、本当に、授業の予習復習に追われて一日が終わる日々でした。
しかも、狭い自習室で座りっぱなし、少人数の人間関係なので誰が優秀か一目で分かるため競争意識も芽生え、だんだんとわずらわしさも出てくる、学生気分は気楽だけれど社会人をやっている友達と会うと焦りも出てくる、そんな日々でした。
②に続く。