ここ1年ほど、私は、せめて寝ている時間だけでもデジタルデトックスをしようと思い、スマホは寝室の外の廊下で充電し、さらに入念に、寝ている時には機内モードにしている。
おかげで、頗る睡眠の質が上がった。
電磁波を浴びないことや、入眠時に過度な情報を入れないことに、これほどの効果があるとは、正直想定外であった。
ところで、私は、以前は電車内で向かい側に座っている人たちを見ると1列全員がスマホを弄っている、ということがよくあったのだけれど、最近は、本を読んでいる人をよく見かける。老若男女問わず。文庫や新書のみならず、ハードカバーも結構見かける。
こうした、何だかよく目につく景色は、偶然であるようでいて偶然ではなく、私の潜在意識が見せてくれているサイン、シンクロニシティだと私は考えているので(もう少し説明すると、私の潜在意識で今『本』が重要だと思っているので、目に入ってくる情報のうち本に関わるものが無意識に記憶に残る)、
数日前、久々に小説を読もう。と思った。
読むものは、父が好きだった、と母から聞いたことのある、田辺聖子さん。
とりあえずは、うちに今ある4冊。と決めた。
なぜ田辺聖子さんにしたかというと、父について、何でかなあ、男の人で田辺聖子さん好きって珍しい気がするなあ、と思っていたけれど、弁護士の仕事をしていると、そういう「社会通念からちょっと外れたところ」に着目していくと、事件の本質が見えてきたり、事実認定に役立つことがあったりするので、
ここから父という人を紐解いてみたいな、と思ったのだ。
私は、両親譲りの現在進行形活字中毒で、本が大好き。
中でも小説が好きで、嵌った作家さんはとりあえず全作制覇するし、学生時代や会社員時代には、夏の『新潮文庫の100冊』をとても楽しみにしていた。本屋さんに新作から不朽の名作まで平積みされたあのコーナーを見ていると、胸がときめいた。
しかし、弁護士になって以来、ほとんど小説を読まなくなった。特定の作家、具体的には村上春樹さんと吉本ばななさん以外は、ほとんど読まなくなった。
時間的に小説を読む余裕がなかったこともあるし、精神的にも、自分に起きた様々な出来事や弁護士として直面する様々な事件といった現実がドラマチック過ぎて、フィクションの世界を楽しめなくなったからだ。
引っ越しをするたびに、書棚から小説が減った。
小説を何度か読もうと手に取って試みてはみるものの、集中力が続かず、物語世界になかなか入り込むことができない状態だった。
同じ傾向は、映画やドラマにも出て、一時期、私は映画を観なくなった。
また、同じ傾向は、サッカー等のスポーツをテレビ観戦している時にも起こった。
昔ほど、楽しくないし、飽きてしまう。
今にして思えば、それほどまでに自宅でも何かしら心配事(主に仕事)があったということなのだろう。
また、私はいったん入り込むと集中し過ぎるくらい嵌ってしまう性質(たち)なので、もしかすると、はまり込んで仕事や日常生活に影響を及ぼすことも怖くて、無意識のうちに物語世界を遠ざけたのかもしれない。
ただ、弁護士になって2、3年したころ、映画の内容如何にかかわらず、「映画館に行く」という行動そのものが良い気分転換になると知り、三島(正確には清水町)の柿田川湧水公園のすぐ近くにあるショッピングセンターに併設された映画館に1人で度々通うようになった。
物理的に目の前の世界に入り込まざるを得ない、映画館、音楽鑑賞のホールやライブハウス、或いは観劇の劇場という環境は、当時の私の心に小さな風穴を開けて、救ってくれていたのかもしれない。
話を小説に戻すと、
早速、田辺聖子さんの短編集『ジョゼと虎と魚たち』を読んだ。表題作は、映画やアニメ化されているので、ご存知の方も多いだろう。
初版は昭和62年(1987年)、田辺さん57歳のころの作品だ。
手元の文庫は平成18年(2006年)7月の20版。おそらくロースクールの2年か3年次に買ったのだろう。または、司法修習生のころかもしれない。
登場人物の女性の諦めの早さ(29歳で世間を知り尽くしているような)、男性のよくも悪くも強い感じは時代を感じさせるものの、30数年を経ても、全く色褪せない面白さだった。
表題作では若い主役たちの瑞々しさ、その他の作品では、希望と少しの諦観、今を生きる態度、大人の女性のプライドと弱さと、弱さも苦笑しながら受け容れるところ、官能(行為そのものの描写はなく、ほんの数行、男性が主人公の身体と心をどのようにどういう温度や質感で触れ、主人公がそれをどのように好もしく思っているのかについての描写にとどまるのにとても官能的なのだ)、そして田辺さんといえば何でもない普通のご飯の美味しそうなこと(食べることが好きで、日ごろ作っている人の描写だなといつも思う)、そしてそして、思わずクスっとしたりニヤリとしてしまう、滋味あふれるユーモア。
これらを堪能した。
おかしなことを言う、と思われるかもしれないが、私は、小説が面白かったこともさることながら、「小説を面白いと思うことのできる自分の心の潤い」にも感動した。
私の心は、渇ききっていなかった。
私の心は、11年を経て、再び物語世界を楽しむだけの余裕を取り戻している。
そして、こうしたエッセイのような文章を、また書こう、書きたい、と思う情熱も、流れ込んできた。
結局、父がなぜ田辺聖子さんを好きだったのかは、分からないままだ。
ただ、食いしん坊だった父は、きっとあのご飯の描写に舌なめずりをしたのだろうし、情に厚くてユーモアがあって逞しくて賢くて、でもどこか脆い、けれどドライな、田辺文学に登場する女性たちのことを、好きだったのかもしれない。なぜなら、母がそういうタイプだったから。
そういうことにしておこう。