皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
マミコちゃんと開催したワークショップについての記事(ご参加本当にありがとうございました!マミコちゃんが早速アップしてくれています!)やご感想のご紹介も書きたいのですが、昨日書きかけのこちらの記事から。その他にも、いわゆる「前に出るおそれ」についてなど、書きたいことが溜まっております。
なぜだか忙しくてですねえ・・・ってこの前も書いたな。
そうそう、その連休明けに、以前に男女問題のご依頼やご相談を頂いたお2人のクライアントさんから嬉しいご報告を頂きました。
共通しているのは、そのお相手との距離は物理的心理的に離れたけれども、その距離なりの愛し方・愛され方があるよね、ということでした。
離別や失恋や死別、或いは自然消滅等によって大切な人との関係性を喪失した時、私たち人間は。もうその人とは、語り合ったり、目を見つめたり、身体に触れて温もりを感じたり、心を寄せあったり、時にケンカしたりすることができなくなることがツラくてて仕方ありません。
そういう時のツラさは、「もう愛されなくなること」だと思いがちなのですが(特に主に「愛される立場」である子ども時代に親と別れたような場合は「愛されたい」と思いがちかと)、実は最もツラいのは、愛されなくなることではなく、「もう愛せないこと」なのですよね。例えば、子どもやペットなど自分が主に「愛する立場」である人や動物とのお別れを想像してもらえれば理解して頂きやすいかもしれません。
「愛されない」「愛せない」、いずれにせよ、ツラいことには、質量とも変わりがないんですけれどもね(笑)
ただ、愛されないことよりも愛することができないのがツラいんだ、と気が付くと、能動的ですから、自分で何とかすることができる気がしませんか?
その知識を得ていれば、たとえ今は感情的には信じられなくて「愛されないのがツラいんじゃー!」と叫びたい気持ちだとしても、「そうなのか。自分で何とか立ち直ることができるのか。」と、納得できないながらも頭(思考)には光明が差します。これが、深い喪失の痛みから抜け出すためのまず第一歩だと思います。
で、喪失したとしても、愛することを止める必要はないのです。ストーカーはダメだけどね!(笑)
そうは言っても、離婚や失恋の場合は、「だって、そんなこと言ったって、別れたんだからもう愛せないじゃない!」と思われるかもしれません。死別の場合は、「そもそも愛する相手の身体がなくなって会えないじゃん!」と思われるかもしれません。
でも、愛情の示し方って様々な方法があって。
毎日連絡したり会うこと、身も心も愛おしいと思える触れ合いを持つこと、その人以外には見せられない弱さを見せ合うこと、ピンチの時に馳せ参じること、お金や労力をかけること、相手のために自分の苦しみを耐えること、一緒に美しい景色を見ること、何気ない日々の暮らしを共にすること。
それだけが、愛すること、ではない。
例えば、
生きている人だったら、遠くから見守る、幸せを祈る、向こうも祈ってくれているだろうことを感じ取る(受け取る)、関係性によっては友人としてお付き合いする、等。
亡くなった人だったら、墓参する、あちらの世界から見守ってくれていることを感じ取る(受け取る)、自分もあちらに行った時にまた会えることを楽しみにする、等。
物理的な実体がほとんどなかったとしても、感性次第では、愛を贈ることもできるし、愛を受け取ること(愛を受け取ることも愛することの1つの態様なのです)もできる。
私たちは、特に若い時分には、「この愛し方以外は、愛じゃない」と自分の求めるやり方以外を受け容れない、ということをしがちです。
私も、長年そう思っていて、元夫は私のことを愛さなくなったんだ、と誤解をしていました。
愛することを、無理に止めなくてもいい。
自分の求める形じゃないとしても、愛はある。
喪失ではなく、愛のカタチが変容したのだ。
そう捉えることができるようになると、喪失の痛みから、だんだんと抜け出すことができるようになります。愛が循環するからです。
とはいえ、愛することを止めたくはないけれど実体がない対象へ愛を注ぐことに疲れてしまって、自分の中の愛が枯渇してしまうこともあります。
そんな時は、今、ここにある、小さな愛を集めるのがおすすめです。
そうやって、あなたご自身が、今、あなたの周りにあるたくさんの愛に囲まれていることを実感して生きていると、喪失が喪失ではなくなっていくのかもしれませんし、今、実体のある愛にも、より深く感謝をすることができるのだろうと思います。
母の日に寄せて。
こんな風に↓母が恋しい日もあったけれど、最近はとんと穏やかです。亡くなった母を愛することができているのかも。
★愛ちゃんのこちらの記事も素敵です。