皆さま、こんにちは!愛し合っていますか?
前回の「事務所を引っ越したらお仕事が怒涛のように」シリーズ(長いな!)の最終回でも、
ああ、今の私だったらもっと上手くできたんじゃないか、という思いはもちろんあるけれど、あの時は仕方がなかったんだ、未熟だったけれど、私はあの時できるベストを尽くしたんだ、
と、心から思え、自分を許すことができました。
と書きましたが、最近、私の中では、「弱い/ダメな/未熟な自分を許す」ということがテーマのようです。
今朝の瞑想でも、「自分を許す」という言葉が浮かびました。
自分が自分の弱さを嫌っていると、
外の世界に似た弱さを持っている人が何度でも現れる。大切な人がそれを見せてくれる時は、自分を許すチャンス。#朝瞑想のひとこと#投影の法則#たまには視点を変えて猫を撮る pic.twitter.com/Nw4e6givgH
— 小川 正美/たまに戦う弁護士・心理カウンセラー (@MasamiOgawa_LLL) August 29, 2021
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自分を許す、それも「弱い/ダメな/未熟な自分を許す」って、簡単なように思えて、なかなか難しいものです。
私の場合、美味しいものやお酒の誘惑に負けた弱い自分とか、つい飲み過ぎて騒いじゃった弱い自分とか、スカートのファスナーが開いてて年配女性がそっと教えてくれたダメな自分とか、猫たちに文字通りの猫なで声で話しかけている未熟な自分とか、そういうのは簡単に許せるんですけれど(みんなそうだよね?ね?)、こと仕事とかプライベートの大事な局面で、勇気を出せなかったり、出したけど舐められてかつそれに上手く対処できなかったり、もうひと踏ん張りしきれなかったり、物事を大局的に見る目がなく未熟だったり、といったことについては、なかなか許すことができませんでした。
弱い自分を許せない理由は、その人が、弱くて力のなかった時代(多くは子ども時代。心理的には依存時代と言います)に自分が傷ついたり、大切な人(多くは家族。思春期~青年時代だと恋人や友人のことも)を守り切れなかったという挫折体験を経て、もっと強くなろうと決意をして努力し、力をつけ、自立してきたからなのです。
私の場合だと、まずは、10歳の時に亡くなった父を守れなかった、父の死で転校した先で自分を守れなかった、元夫を(ある意味)守れなかったとともに自分も傷ついた、母を会社や病気から守れなかった、等々の出来事があって、とにかく勉強を頑張ったり仕事を頑張ったりして自立の道を究めてまいりました。
そして、力の象徴とも言える弁護士資格を得て、弁護士として稼働しています。
もうここまで来ちゃったら、自分で言うのもなんですけれど、自分の弱さを受け容れることはなかなかに困難です(笑)
弱いとクライアントさんに迷惑がかかる、ともずっと思ってましたし。実際のところは、部分的に弱くても何の問題もないんですけれどね。
ホントの私はそんなに強くないので(少なくとも自分ではそう思っている)、弱い自分と職業的に強くあらねば、という葛藤や、弱い女でいたい自分と強くありたい職業的な自分との葛藤とか、そういうややこしいというか繊細な感情もありましたし。
ですが、いつまでも弱さを受け容れず自立が行き過ぎると、人を頼れず、信頼できず、結果として1人で何でもやろうとするのですが、当然のことながら1人というのは効率は悪いし、頑張っている割に上手くいかない。なので、イライラして、ますます頑張る。でも、そんな状態で頑張ってもそれもまた非効率で上手くいかない。イライラしている人の周りには人は寄り付かないので、ますます人間不信に陥る・・・というネガティブスパイラルに嵌ってしまいます。
ゆくゆくは、デッドゾーンと呼ばれる領域に入り、死んだように生きながらえることになってしまう。
これを回避・解決するには、女性性の力が必要で、端的に言えば「弱い自分を受け容れて」「人から助けて貰う、委ねる、流れに身を任せる」ことをしていきます。そして、自立している者同士が相互に助け合う、相互依存の世界に移行するのです。
血のにじむような努力をして頑張り続けて社会的地位や金銭等の恩恵を得てきた人からすると、受け身な女性性って、すっごーく苦手な分野です。コントロールが効かないって怖いですものね。
実は、私もかなりできるようにはなってきたものの、分野によっては苦手です(引っ越しとか転職とかピンときたことを趣味でやるとかそういう分野では流れに身を任せるのは得意です)。
さてさて、ところで、今回のタイトルの「弱い人と出逢う意味はたぶん2つあって、その1つは、自分の弱さを受け容れる、許すため。」についてお話します。やっとかよ?やっとだよ!
私は、自立した(し過ぎた)人の人生に弱い人が登場する意味は、2つあると思っています。
1つ目は、自分を強くあらしめるために、弱い人と出逢う。
2つ目は、自分の弱さを受け容れるために、弱い人と出逢う。
前者については、あまり説明しなくても賢明な皆さまにはお分かりいただけるかと思いますが、人生においては、弱い人と出逢った意味は自分を強くするためだった、ということがままあります。
例えば、母親・父親とかきょうだいが病弱だったり、精神的に弱かったりで、家事をしたり親の話の聞き役になったりきょうだいの面倒を見たりとか。良いヤツだけど仕事はできない後輩の面倒を見たりとか。女にだらしないダメンズといつも付き合ってしまうとか。
自分が強くならざるを得ない環境に身を置くことで自分を鍛えるというドМかつスパルタ方式で、素早く強くなることができるんですよね。
で、後者の(今日の本題の)「自分の弱さを受け容れるため」に弱い人と出逢う。ということについては、投影の法則とそこから出てくるシャドウという存在について、まずは説明したいと思います。
投影の法則は、自分の心の中で感じている感情や思いが外の世界に映し出される、という法則です。「世界は自分が創っている」というやつです。
また、弱さに限った話ではないのですが、自分が嫌いな自分を受け容れないまま嫌い続けていると、その感情を外側に投影して、似たような欠点(自分では欠点と思っている)を持った他人が目の前に出現し始めます(シャドウ)。
当然、そんなシャドウのことはあまり好きになれません。人間だもの。
しかも、そのシャドウは、(自分から見たら)欠点を欠点とも思わず堂々としていたり、或いは逆に、欠点を必要以上に気にしてオドオドしていたりして、余計にモヤモヤしたりムカついたりして、心がささくれ立つのです。
実のところ、モヤモヤ等の正体は、自分が禁止していることを堂々とやっている他人が羨ましかったり、見たくもない自分の欠点をデフォルメして見せられて苦しいといったものなのですが。
これを先ほどの「弱い人と出逢う」に敷衍してみると、
1つ目の「自分を強くあらしめるため」の場合、おそらく自分とは異なるタイプの弱い人であることが多いでしょう。自立的な人から見ると、依存的な人。
2つ目の「自分の弱さを受け容れるため」の場合は・・・・そう、お気づきですよね。自分と似たタイプの人のことが多いでしょう。つまり、シャドウです。
自立的な人から見ても、自立的な人。でも、「弱い」ということは、どこかに弱さがある。しかも、その弱さは、自分が認めたくなくて、ひた隠しにしてきたのと同じ類のもの。こんな弱さがあると人に知られたら生きていけない、またあんな目に遭うのは不安だし怖すぎる、と自分の潜在意識では思っていて、知らず知らずのうちに「こうするべき」「しなければならない」で塗り固めた城壁で守っているもの。
その多くは、自分が抑圧してきた依存心、かつて傷つき過ぎた心であるかもしれません。
その依存心や傷心を、この人なら理解してくれる、受け容れてくれる、と思うと、抑圧して自立してきたぶんだけ、溢れ出てしまうこともある。これだけ頑張ってきたんだから認めて欲しい、と、本当は目の前のその人じゃない人(親など)に受け容れて欲しいし、もっと究極的には自分のことは自分が認めてあげるほかないのに、受け容れて欲しいという感情が溢れ出して、依存的になってしまう。
他方で、それを見せられた人は、自分と同じだ、と受け容れる場合もあれば、自分の依存心を嫌っているぶんだけその人を嫌う場合もある。
いずれにせよ、共依存的な関係になりがち。
なので、この場合、つまり自立的な人の隠れた依存心が見えて自分も自分の中にある似たような依存心を嫌っている時には、相手がどうこうと非難したりするよりも、この人が自分の人生に現れたということは自分の弱さを受け容れる時なのだ、と解釈する方が、平和だと思うのです。
自立的な人同士の非難合戦は、往々にして言葉が激烈化し、正しさの争いとなり、遺恨を残すからです。
それならば、お互いにじっと自分自身の弱さと向きあい、癒していく方が、よほど建設的だし、関係性が良い方向に(相互依存の方向に)発展する可能性も高い。
とはいえ、自分の弱さと向きあうのはしんどいですけれどね。。。冒頭に述べたように、簡単なように思えて、なかなか難しいものです。
特に、自分が強くなろうと固く決意したきっかけの出来事にまつわる弱さについては。
私は、最近、
こんなに頑張っているんだから、(主に)母から褒めて欲しいという依存心と、バカじゃないの、結局は自分で自分を褒めなきゃ満足しないよ、という自責の念、
元夫に対する許せない気持ちとか対抗意識とか当時アホみたいに純粋だった自分への怒りとか見下しとか(まだあった・・・笑)、そこから脈々と繰り返してしまったその後付き合った彼達への似た感情
に向き合ってみました。
向きあうとね、一時的に苦しいんですけれど、
その心の闇を自分が見てあげたことによって、頑なな心は不思議と少しずつ溶けていくのです。
他者に対して投影している怒りやおそれや不安や緊張も肯定しつつ(そう感じるのは仕方ないよね)、自分の中にいる、甘えたい、叫びたい、認めて欲しい、自由になりたい、自分が大嫌い、等そんな気持ちを見つめて「ある」と認めていく。
そして、気が付けば、シャドウに対しても、イライラやモヤモヤを抱かなくなる。
(これは本当に不思議なことに、突然平気になります。)
自分の心が自由になれば、人も自由にしてあげられる。
自分の弱さを受け容れることができれば、人の弱さを許すことができる。
弱い人間同士として、それでもみんながそれぞれ持っている素晴らしい才能を活かしあおうよ、ここを助けて欲しいんだ、という姿勢が出てくる。
自分を信頼し、人を信頼することができる。
きっと、その方が、あなたは幸せ。世界も幸せ。