皆さま、こんにちは。愛し合っていますか?
たまに戦う弁護士の小川正美です。将来的には、戦わない弁護士を目指していますっ。
さて、またまた例の訴訟の件についてです。
また新たな気づきというか腑に落ちたのですが、ちょっと仕事などで忙しかったので、動画を先に撮って公開しました。
★先出しした動画はこちら。
新たな気づきとは、
彼は私だ。
ということです。
正確には、昨年末にカウンセリングを受けた時に既に「彼(訴訟の相手方)はシャドウでは?」と指摘を受けていて、お正月に自分の中でも認めたつもりだったんですよね。
今読み返してみたら、やっぱり、頭では分かってるんだけど腑に落ちていない、落としたくない感がアリアリでしたー--!てへっ笑
それが、ちょうど半年弱経って、腑に落ちたんですよねえ。
認めたくないけど、認めざるを得なかったというか。
だって、認めたくないですよ(←しつこい)。
自分の敵を自分だなんて。
下手したら、汝の敵を愛せよ、より難しいかもしれないとさえ思います。だって、「汝の敵を愛せよ」だったら、ちょっと上から目線でイケるじゃないですか。
「しょうがないわねえ。許してあげるわ。」って(笑)
それなら、まだ、自分の沽券というかプライドというかそんなものが保てるけれども。
あの人が自分だなんて、イヤイヤイヤイヤイヤー---!!!許せない!!!って言うのが本音でした。いや、今もかも。
でも、嫌い嫌いも好きのうち、じゃないですけれど(ちょっと違う)、確かに、私がずっと抑圧して嫌ってきた自分の要素を彼は見事に見せてくれているんですよね。
①怒りの感情に任せて理不尽な行動、しかも攻撃に出る。
②請求の内容が依存的。自分は悪くない、認めろ、が主訴。
③②に関連して、被害者ぶっている。
④認知の歪み、事実誤認、思い込みがある。
①怒りの感情に任せて理不尽な行動、しかも攻撃に出る。
については、
私は昔は結構怒りの感情も素直に出せていたんですけれど、弁護士になってからは、「いい大人なんだから&弁護士たるもの&そもそも自分が怒られるのが嫌い」のトリプルコンボで、怒りを出せなくなりました。
ただ、最近はあまりしなくなりましたが、仕事で怒りを「使う」ときはあって、そうやって使った時って、スッとした気持ちを心のどこかで感じていました。おそらく、溜め込んだ怒りを恣意的とはいえ吐き出したことでスッキリしていたんでしょうね。八つ当たりともいう・・・(笑)
怒りを抑圧する癖がついたことも、一方的に悪いことではなく、怒る出来事があっても何とかその出来事や人の良い面を見ようと善意解釈した結果、確かに私の人間としての器が広くなったように思います。そこを長所、魅力として人から言っていただくことも多いですし、そう言っていただけると、ありがたいなあ、って思います。
とはいえ、やっぱり、感じた怒りは出した方がいいですよねえ。安全な形で。
そうしないと、抑圧した怒りがストレスとなって身体に悪影響を及ぼしたりしますし、それに、自分が隠しているつもりでも案外人には抑圧した怒りってバレてたりしますし、特に近しい人に対しては漏れ出るだけじゃなく八つ当たりもしちゃったりしますから。
怒りを出すなら、ノートに書くとか、カラオケするとか、スポーツで発散するとか、お酒・・・は身体によくないから止めた方がいいかな。
また、怒りは二次感情、感情の蓋と言われていますので、怒りが出ると、その下にある、悲しみや寂しさや欲求(ニーズ)などの怒りで抑圧していた感情が出てきます。これらを感じたくないから、怒りで抑圧しているんですが、怒りを嫌っているとさらに怒りさえも抑圧するという・・・。
こんな状態でしたから、素直に、感じるがままに、思いっきり、理不尽とか考えることもなく、私に対して攻撃をしてくる相手方のことが、ある意味、羨ましかったのかもしれません。認めたくないけど。
別の見方をすれば、相手方が、私に対して、私が抑圧している怒りを見せてくれたのかもしれません。
②請求の内容が依存的。自分は悪くない、認めろ、が主訴。
これは、抑圧している自覚がアリアリです(笑)
子どもの頃の口癖と言えば、「なんで私ばっかり!」「私、悪くないもん!」でしたから。それで、よく母親にお尻を叩かれていましたから。
なぜ私がお姉ちゃんであるという理由だけで弟に譲らなければならないのか、私だってまだまだ子どもである、そこに納得のいく説明がないのに(憎たらしい子どもだったww)、私が一方的に我慢することはできない、私は悪くない!
っていう感情が、本当に、三つ子の魂百までもで私の中にこびりついています。
だから、①と関連しますけれども、理不尽さが許せない。
だから、自分も弟も同等に扱われるべきである(弟とは3歳差です)、ひいては人間は対等に扱われるべきである、という正しさへのこだわりがある。
さすがに、母や弟を恨んではもういませんけれどもね。生前の母には何度もクレームをつけましたし、弟にもこの前「あんたが羨ましかった」と話しました(笑)
他の場面でも理不尽さや不公平への嫌悪感や正義感を募らせることは若い頃は多々ありましたが、だんだんと「大人なんだから」という理由でそういう感情を表に出さなくなりました。
おそらく、私は、自分が甘やかされたかったという依存心を正義感で巧みにコーティングしていて、正義感を出しているうちは依存心が満たされなくてもまだスッキリ感があったのでしょうが、外側の正義感すら出すことを止めてしまったために、依存心も正義感も出せなくて苦しかったんだと思います。
だから、これまで懲戒請求は全て棄却されているにもかかわらず「オレは悪くない!お前が悪い!認めろ!」という請求を堂々としてしまう彼のことがある意味羨ましく、重ねて言いますが、そういう人が私の人生に出現したのだな、と思います。
③②に関連して、被害者ぶっている。
これもねえ。私の大っ嫌いな自分の性質です。これがあるのは認める。認めざるを得ない(笑)
言い訳させてもらうと、弁護士の仕事って、クライアントさんの被害者っぷりを如何に上手くプレゼンするか、みたいなところもあるんですよ。どんな案件でも。かりに加害者の立場であったとしても(過失割合の話になったり、刑事事件だったら情状酌量の余地を主張したり)。
だから、被害者になる思考の癖が染みついていて・・・って、書いてて思ったけど、苦しい言い訳だわ(笑)
まあ、そういうわけで、あくまで被害者の立ち位置を取ろうとする相手方に対して、「被害者は私のほうじゃー--!!」と腹が立って仕方なかったんでしょうねえ。
④認知の歪み、事実誤認、思い込みがある。
これもですね、具体的なお話はできないのですが、相手方の主張には、数々の認知の歪み、事実誤認、思い込みがあります。
そんな意図じゃなかったんだけどなあ・・・といった点については、客観証拠や動かぬ事実も摘示しつつ、「誤解ですよ」と反論はしています。
でもね、じゃあ、私がいつも正しい、適正適切なものの見方ができているかというと、そんなことないんですよね。人間だもの(みつを)。
もちろん、事実関係から法的にどうなのか、ということに関しては、仕事にしていますからある程度自信はありますし、犯罪者からエリート層富裕層までいろいろな人に接した経験がありますから人を見る目みたいなものにもある程度の自信はあります。
でも、だからと言って、目が曇らないわけではない。
自分の自信のなさから、空気を読んだつもりが読めてなかったり、本心を読み間違えていた、なんてこともあるし、本心がそもそも分からないこともあります。
また、思い込みが外れてものごとの捉え方を変えてみると、全く違う世界が見えることなんてしょっちゅうだから、いったい何が「正しい」「本当」なのかも、実のところよく分からない。
★前回そんな話をしました。
そう考えると、相手方が持っている思い込みと私の思い込みでは、その内容は異なるけれども、無価値感から世界を見るという点においてはきっと共通していて、私も、こういう風に「思い込みによって無価値感から世界を見て、拗ねたり僻んだり被害者になったりしている」ということがあるんだろうなあ。過去にもあったし。と思いました。
たぶん、この訴訟の相手方に限らず、私はまだまだ自分を受け容れきれていないのだと思います。
羨ましい人は山のようにいるし、
人生って厳しいな、と思ってしまうこともまだまだあるし、
抑圧して、そのこと自体に気が付いていなかった感情もあるし、
認めたくない感情もあるし。
けれども、こうした残りの宿題(笑)も含めて、自分を受け容れていくのが人生なんだろうし、
それが自分を愛するっていうことなんだろうな、と思っています。
陰に日向に応援して下さった皆さま。
ありがとうございました。
まだ訴訟は終結していませんが、なんとなく、中締め感がありますので、御礼まで。
★訴訟の相手方と自分に向き合ってみたシリーズ。すげーたくさんあるな!(笑)